「落首」という文化

古墳の話第2段はちょっとだけ先送りということですみません。日付下の表題にあるとおり、今日は「嘉吉の変」が起こった日です。室町幕府の第6代将軍足利義教が、播磨国守護赤松満祐によって殺害されたという事件です。
足利義教というのはとても癇症の強い人物だったようで、ちょっとしたことで部下を手打ちにしたり、側室に乱暴したりとその乱行の数々が伝えられています。曰く「万人恐怖」。で、「…次は自分か」と恐れをなした赤松満祐に殺害されてしまったわけなんですけど*1
この嘉吉の変の後、京都に1つの落首がはやったそうです。日本史の授業などで触れられることも多く、かなり人口に膾炙している歌ですが、ここで紹介したいと思います。

いなかにも京にも御所の絶え果てて公方にことを嘉吉元年

「いなか」は鎌倉、「京」は当然京都です。この事件の数年前、義教は自らに反抗的な態度を取り続けた関東公方足利持氏を攻め滅ぼしました(永享の乱)。その結果、鎌倉も京都も御所が絶え果ててしまって、公方(将軍)にもことを欠く始末である、という大意です。言うまでもなく、「嘉吉」には「(ことを)欠きつ」という意味が掛けられています。
よくできた落首です。歴史を学ぶと、いろんな落首を目にする機会があります。それらは全て、「政治に対する風刺的な視点」から産み出されたものです。落首あるところに政治に対する批判あり、と言えるかもしれません。「痛烈な不信任意思表示」であると。
そう考えると、庶民の思うところの根っこって、現代に至るまでずーっと変わっていないのかもしれませんね。


これを無名の一般庶民が作ったってゆーんだからスゴいよなあ。人気blogランキング

*1:その死に際して、伏見宮貞成(さだふさ)親王は、自らの日記『看聞御記』のなかで「自業自得」「将軍此の如き犬死、古来その例を聞かざることなり」とバッサリと切り捨てています。