策士と策士

つづき。


で。
「義時殺害」に失敗した義村はどうしたのでしょうか?
「こうなったら後には引けぬ」とばかりに北条との全面対決に踏み切ったのでしょうか?


さにあらず、でした。
「義時を討ち漏らした時点で、今回のクーデターは失敗」と鉾を収めてしまいます。
即、無事に屋敷に逃げ延びた義時のもとに使いを送ります。
義時の意向は「直ちに公暁を討て」とのことでした。


ここらへんのやり取りを考えると、私なんかゾクゾクしてしまいます。
殺すはずだった男に使いを送る義村。
「うちの乳母子がトンでもないことしてしまったけど、三浦一族は無関係」ぐらいのシラは切ったであろう男。
また、それらを全て承知のうえで、あえて不問にしたうえで「ならば公暁を討て」と命じた義時。
自分の手を汚すことなく、事態の収拾をはかり、かつその機に乗じて三浦一族の「旗印」まで奪い去ろうとした男。
…どちらも策士です。


結果、公暁は義村の屋敷に向かう途中*1、義村の手の者である長尾定景に討たれて、あえない最期を遂げました。
義村は、和田義盛同様、乳母子である公暁をも「見殺し」にしたのです。
一族を守り抜くために。


義村「一世一代の賭け」は、結果として、実朝と公暁という双方の「旗印」をともに失うという、いわば「痛み分け」に終わりました。
しかし、その引き際のあまりの見事さには感嘆させられることしきりです。


義村は、承久の乱の際には「朝廷方に」という後鳥羽上皇の誘いを蹴り、義時とともに「彼らの」鎌倉幕府を守るために戦いました。
一説によれば、彼が朝廷方の誘いを一蹴したことによって東国武士の結束は鉄のように固まった、といいます。


義村の死後、跡を継いだ泰村は義村ほどの人物ではなかったようです。温和だけど、策に欠けるようなタイプの人間だったといいます。
そして、そこにつけ込んだか、義時の曾孫である北条時頼によって、「宝治合戦」と呼ばれる戦を仕掛けられた結果、三浦氏は滅亡しました。
地下の義村は、どんな心境だったでしょうか。


今回書かせていただいた「実朝暗殺事件の黒幕は三浦義村」というのは、以前当ブログでお話させていただいたとおり、永井路子さんの一連の著作で初めて語られ、今日定説として考えられるに至った考えです。自分が日本史に興味を持つきっかけを作ってくださった永井さんに多大なるリスペクトを表するため、改めてここに記しておきたいと思います。


余談ですが、昭和54年のNHK大河ドラマ草燃える』では、義村の役は藤岡弘が演じていました。とてもシブく演じていたのを幼心に覚えています。まだ芸名に「。」が入る前のことでした。


長くなってしまいました。最後まで読んでくださって感謝です。人気blogランキング

*1:公暁が義村の屋敷に向かおうとしていたことは『吾妻鏡』にもハッキリ記されています。これこそ「公暁の黒幕が義村であった」ことの最大の証拠の1つであると思います。