また古墳ネタ

仕事関連で見に行った堺市のHPで、こんなおもろいコンテンツを発見しました。
「デジタル古墳百科」(http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/index.html


「さすがは堺市」という感じです。


いろいろ楽しませていただいたのですが、そこで驚愕の新事実を発見。
仁徳天皇陵(大山古墳)*1についての記述。

仁徳天皇陵とされていますが、日本書紀などに伝えられる仁徳・履中の在位順とは逆に、履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)よりも、あとで築造されたことが、わかっています。

同様に、履中天皇陵(石津丘古墳)についての記述には、

陪塚は、10基以上あったことがわかっていますが、現在は、七観山古墳の出土資料などから、仁徳陵古墳(大仙古墳)よりも古くに造られたことがわかっています。

…このへんって、以前にもお話させていただきましたが、天皇陵治定についての1番のダークサイドなんですよねえ。
現在宮内庁が管理している陵墓って、主に文久年間(1861〜63年)に尊王運動が盛んになった頃に新たに「この古墳って…天皇陵じゃね?」として修復されたものが*2、明治に入って一部再検討を加えつつ「天皇陵として治定」されたものなんですね。
それ以前はどうだったかというと…もう諸説フンプン。「不明」とされていた天皇陵も少なくありませんでした。それを嘆いて蒲生君平が『山陵志』著したぐらいですし。
で、この明治の治定が100%正しかったかというと…案外そうとも言えないんですよね。例えば、平安時代初期に在位していた平城天皇の陵墓として現在治定されている楊梅陵(やまもものみささぎ)(奈良市佐紀町)は「古墳時代に築造された前方後円墳平城京造営時に前円部を残して破却された、その残骸の前円部」というのがほぼ定説になっていますし。
これ以上あまりツッコむのもナニなネタですので、ここではお話として紹介するに留めておきますが…うーん、です。


ちなみに、履中天皇陵(石津丘古墳)については、こんな記述もありました。

江戸時代の記録では、後円部中央に大きなくぼみがあったといわれていることから、すでに盗掘を受けている可能性があります。

あんりまー。


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*1:堺市HPでは「大仙(山)古墳」と表記されていました。市の公式見解としては併記(あるいは「どちらを使っても可」)ってことなんでしょうかね。同様に、履中天皇陵については、私は「石津丘古墳」という表記をこれまでずっと使っていたのですが、「石津ヶ丘古墳・ミサンザイ古墳・百舌鳥陵山古墳」と3つの名前が併記されていました。「いしづがおか」については「ヶ」が入った表記でした。弊ブログでは、一応当面は今後も「大山古墳」「石津丘古墳」という表記を使用するつもりではいますが、何かのきっかけで変更させていただく可能性もなきにしも、です。

*2:さらに言えば、ぶっちゃけ「古墳ですらなかったところをムリヤリ修復して天皇陵にしてしまった」なんて例もあったようです。崇峻天皇陵として現在治定されている倉梯岡陵(奈良県桜井市大字倉橋)などがそれに当たるようです。