魁先生の最期

前回の続きです。


藤堂平助は、永倉新八が逃がそうと道を空けたところ、背後から事情を知らないさる隊士に斬られて絶命した」
これが、これまで信じられていた藤堂平助の最期の様子なのですが…。


最近の研究では、その瞬間は、いささか様子が違っているようです。


藤堂平助は、真っ先に新撰組に斬りつけられて、御陵衛士のなかで1番最初に犠牲になったらしいのです。


先に新撰組の大石鍬次郎らによって殺害された伊東甲子太郎の遺体は、七条油小路の辻に放置されていました。
言うまでもなく、御陵衛士をおびき寄せて、一気に殲滅するためです。
これは、土方歳三が立てた作戦であるといいます。


伊東遭難の知らせを受けた御陵衛士の面々は、本拠にしていた高台寺塔頭月真院から七条油小路に駆けつけます。
そして、伊東の遺体を駕籠に収容しようとしたその瞬間。
合図の銃声とともに、原田左之助新撰組が一斉に御陵衛士に襲い掛かったといいます。


このとき。
伊東の遺体を駕籠に収容しようとしていて、真っ先に新撰組隊士に斬りつけられて最期を遂げたのが。
他ならぬ藤堂平助だったといいます。


御陵衛士が本拠としていた月真院の賄方を務めていた岡本武兵衛から聞き書きした内容をまとめたという書物『編年雑録』によると。
「藤堂は銃声の前に背中を斬りつけられ、振り向いたところを額より鼻にかけて斬られて、刀を抜く間もなく即死した」とあります(参考文献:『新撰組全隊士録』(講談社))。


この説を裏書するように。
鳥取藩が残した藤堂の死体検案書には、次のように記されています。
「一、七条通油小路南西手に倒れ居り候ものは、南部弥七郎(藤堂平助の変名*1) 弐拾八、九才位 疵所両足、横腹弐ヶ所。面上鼻より口へ掛(け)深さ二寸程、長さ七寸斗り、刀を握り候儘果て居り候」(『鳥取藩慶応丁卯筆記』)


「刀を握り候儘」という部分の相違以外は、概ね前掲書の証言を裏付ける形となっています。


では、藤堂は、「本当は助けるつもりだったのに、手違いで殺された」のでしょうか?
次回検証します。


次回でこのテーマ終了予定。人気blogランキング

*1:池田屋で勤皇の志士を数多く斬った藤堂は、新撰組を抜けた後、長州をはばかってか、変名を使用するようになりました。なお、実際の変名は「南部与七郎」であったといいます。