「天誅」おかわり

昨日のエントリで「誅伐した相手の首を斬り、その首を人目につくところに晒すことによって初めて『天誅』は完成するのです」と書きましたが、その補足。
首を晒すことには、2つの大きな意味がありました。1つは、昨日お話した「その者の罪状を告発すること」。そして、2つ目には「『この先同様の振舞いをしたものは、行動を改めないと同じ目に遭わせるぞ』と警告すること」です。
昨日紹介した『幕末天誅斬奸録』によると、文久3年(1863年)3月18日に殺害された2人の僧侶、正惇と光惇の首に添えられていた罪状書には、このような文言が添えられていたとのことです。

余党早々改めずば、またこの奸僧(の)ごとく(なる)のみ。

このように明記されていたケースはレアなようですが、往々にして「天誅」には警告・脅迫めいた性格が色濃く込められていたようです。ま、ある種幕末期って一種の「思想戦」みたいなものですしね。


「許してくださいと言えー!」では許してくれなかったんだろうなあ…。人気blogランキング