武人としてのプライド
山南敬助、続編です。
前回(というか今日)お話した「これまで見落としていた、別の出来事が、自分の中で俄然クローズアップされるようになってきました」とは何ぞや?
文久3年(1863年)から元治元年(1864年)。
時期としては「芹沢鴨粛清から池田屋事件の間」にかけて*1に起こった出来事なのですが。
俗に「岩城升屋事件」と呼ばれる出来事がありました。
大坂・船場の高麗橋近くにあった呉服商・岩城升屋が賊(勤皇派浪士という説があります)の押し込みを受け、知らせを受けた土方歳三、山南敬助ら新撰組隊士*2が駆けつけて戦った、という事件です。
このとき。
土方・山南らは、激闘の末に賊を撃退したのですが。
山南敬助は。
戦っている最中に愛刀「赤心沖光」を折られ。
さらに。
左腕に傷を負ってしまいます。
NHK大河ドラマ『新選組!』においても、この岩城升屋事件(と思われる事件)は、斎藤一の回想の中に登場します*3。
そのシーンでは「刀を折られ、あわやというところの山南を土方が救出。手を差し出す土方」として描かれていましたが。
実際山南がこの事件の際に負傷したのは確かなようです。
しかも。
この傷は。
なかなかの重傷だったようです。
それを証明する出来事があります。
元治元年(1864年)2月に、天然理心流の門人で近藤らと旧知の関係だった富沢忠右衛門が上洛してきたとき。
土方、沖田総司、井上源三郎らとは会って盃を交わしたものの。
山南とは会えなかったようです。
「山南が病気と称して会わなかった」というのが、その理由だそうです。
親切者として知られた義理堅い山南が「会えない」のだから。
相当病気か怪我が重かった…と見るのが自然ではないでしょうか。
さらに。
「このときの傷がもとで、2度と刀を振えなくなってしまったのだ」という説まであります。
なるほど。
山南はその後。
「新撰組最大の危機」であった池田屋事件にも出動せず。
新撰組の戦時の陣形を定めた「行軍録」からも名前を外されています。
「総長」という、No.2の地位にあるにもかかわらず、です。
つまり。
キツい言い方をあえてさせていただければ。
「元治元年以降、山南敬助は、武人としては新撰組に存在している意義が全くない状態だった」と言えるのではないでしょうか。
それを「北辰一刀流免許皆伝」だった山南が深く気に病み。
隊にいづらくなった末に。
脱走したのだとしたら…。
あくまで「1つの仮説」に過ぎません。
ただ、いかにも「全てにおいて、スジが通っている」と思わずにはいられないんですよねえ…。
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