そういえば…今、菜の花が綺麗な頃です。

「ブログ道不覚悟」で切腹となっては困るので*1、山南編のつづきいってみたいと思います。
今回を含めて、あと3回で完結させる予定。


まず前回の補足から。
山南脱走の原因をこれまでに渡っていろいろ探ってきましたが。
そも「山南の脱走そのものがなかった」という説もあります。


新撰組が壬生に次いで屯所とした西本願寺
そこで侍臣を務めていた西村兼文という人物が著した『新撰組始末記』によると。
屯所移転問題で近藤・土方と対立した山南は。
憤激のあまり、自らの意思で自刃して果てた…とあります。


ただ。
新撰組始末記』は、明治に入ってから20年以上を経過した後に西村の回想をもとに書かれた作品らしく、記憶違いによる誤りと見られる記述も少なくありません。
この「山南切腹は自害だった」という記述も、それである可能性はないとは言い切れません。
山南切腹当時、新撰組の屯所は西本願寺ではなくまだ壬生にあったので、西村は「山南切腹」については伝聞でしか聞いていなかったでしょうし。


ここでは「そういう説もある」と紹介するに留めておきます。


で、本日の本題。


山南切腹の場面において、必ずと言っていいほど採り入れられる有名なエピソードがあります。
切腹の直前、前川邸の出窓越しに、山南の恋人であった女性・明里と最後の別れを惜しむシーンです。
NHK大河ドラマ新選組!』においても、堺雅人さんと鈴木砂羽さんの好演技によって、涙を誘う悲しい場面となりました。恥ずかしながら、私もここで涙を流したクチです。


これまで。
日本史業界においては。
「明里は創作上の女性である可能性が高い」とされてきました。
以前紹介した子母澤寛の証言(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060312#p2)などがその根拠でした。


しかし。
最近の研究では。
「明里実在説」のほうが俄然有力な説になってきています。


壬生に光縁寺という寺院があります。
切腹後に山南敬助が葬られた寺院です*2


そこにある山南の墓の隣に。
「沖田氏縁者」と銘が彫られた女性の墓があります。


光縁寺のご住職のお話によると。
この「沖田氏縁者」こそが、明里その人である、というのです。


その説によれば。
山南の死後、明里の面倒を見たのは沖田総司であったようです。
しかし、ほどなくして。
明里は、結核によって世を去ったといいます。
そして、光縁寺の、山南敬助の墓の隣に葬られました。
慶応3年(1867年)4月26日のことでした。


そして。
ここからが肝心なのですが。


沖田は。
明里によって結核に感染したらしいのです。


なるほど。
そう考えてみれば。
私が弊ブログ開設4日目に語らせていただいた「沖田総司池田屋では喀血していない」「彼の結核発症は慶応3年(1867年)の夏頃ではないか」という記述(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050605#p2)と、全てにおいて一致するところです。


沖田がどういう経緯で明里の面倒を見ることになったかは定かではありません。
ただ。
切腹時に介錯を頼まれるほどの間柄だった*3山南が。
死後、自らが愛した女性を沖田に託したのだ、と見るならば。
あまりに自然ななりゆきであるように思われます。


その後の2人の関係については…。
いや、それを想像するのはヤボってもんなのでしょうね。


★★さすがに続編は年度またいだ後かなあ…。人気blogランキング★★

*1:3月20日エントリへのmamimumeさんのコメント参照のこと(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060320#c1142954507)。

*2:寺院の屋根に入っていた「丸に立ち葵」の紋章がたまたま山南の家紋と同じだった縁で住職と山南が懇意になり、そのツテで亡くなった新撰組隊士の埋葬を引き受けたのだといいます。後に山南自身もここに葬られることになるのは奇縁と言えるでしょう。

*3:切腹介錯は、切腹人が希望できる場合には、最も信頼の置ける近しい人に頼むのが普通だったらしいです。