DVD『新選組!』最終話を見ながら

今日4月25日は。
近藤勇が板橋の刑場の露と消えた日です*1


近藤勇の処遇については。
以前にもお話したことありますが(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20051115#p2)。
薩摩藩士の有馬藤太は、どちらかというと同情的でした。
「京に連行したうえで、しかるべき審議を受けるべきである」「万が一『処刑』ということになったとしても、近藤はいやしくも一軍の将であるので*2、その死は切腹の礼をもってしなくてはならない」と主張していたといいます。


しかし。
谷守部(干城)を代表する土佐藩士たちは、近藤を厳罰に処するよう(あまつさえ「拷問にかけろ」とさえ)主張してやまず。
遂には彼らの意見が容れられて。
近藤勇は「斬首のうえ、梟首」という、武士であることも否定された、屈辱的な死を与えられることになってしまいます。


理由はたった1つ。
土佐藩士たちは「坂本龍馬暗殺の真犯人は新撰組である」と信じていたからです。
近藤に対するありえないほどの厳しい刑罰は、何のことはない、土佐藩士たちの「報復」に他ならなかったのです。


近藤の首は。
焼酎に漬けられて京都に送られた後。
閏4月8日から10日までの3日間、京都・三条大橋南河原に晒されたといいます。
あまりに屈辱的な仕打ちであったといえるでしょう。


当日。
近藤の首を斬った人物は。
旗本寄合衆・岡田善長の家臣で、神道無念流免許皆伝の武術指南役・横倉喜三次という人物でした。
彼は、官軍に投降した近藤が最後に預けられていたのが岡田家であったことから近藤と面識を得て、彼の斬首を担当することが決定すると、近藤の佩刀・仁王三郎清綱を近藤自身から贈られました。
そして、その贈られた仁王三郎清綱をもって。
近藤の首を打ち落としたといいます。


横倉は、明治27年(1894年)4月13日に71歳で他界するまで、近藤の命日である4月25日には毎年仁王三郎信綱の刀に香華を供し、酒を供えて近藤の冥福を祈ったといいます。


★★大河最終回のサブタイトル「愛しき友よ」は秀逸だったと思います。人気blogランキング★★

*1:表題には「明治元年」とありますが、正しくは「慶応4年」のことです(「慶応4年」が「明治元年」に改元されたのは9月8日のことです)。以前にも紹介したとおり(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060222#p1)、明治以降を除いて、便宜上「元号改元後のものに統一する」のが普通なようですので、あえて注記を付すに留めた次第です。また、例によって「太陽暦に換算」すると「西暦1868年5月17日」のことになります。

*2:彼は旧幕府から「見廻組与頭格」という旗本としての格式を与えられた、れっきとした武士でした。