壮士の最期(3)

…前回から随分と間が空いてしまいました。すみません。ちなみに前回のエントリはこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060211#p1)でございます。


前回は、松平家における大石主税堀部安兵衛切腹直前の群像を紹介しました。
今回も、同じ松平家より。


松平家お預け10人のなかで、最後に切腹の座に着いたのは大高源五でした。
彼は、「子葉」という号で俳人としてのもう1つの顔を持つ人物でした。「蕉門の十哲」の1人として知られる宝井其角と親交があり、討ち入り前日にたまたま両国橋で其角と会った際、「年の瀬や水の流れと人の身は」と其角から詠み掛けられた上の句に「あした待たるるその宝船」と下の句を返し、遠回しに討ち入りが翌日であることをさりげなく教えたエピソードで知られています*1


この源五。
切腹の座に着くなり、筆と紙を所望し。

梅で呑む茶屋もあるべし死出の山

という辞世の句を即興で詠んで、居合わせた一同を感嘆させたといいます。


彼の介錯を担当したのは、松平家に仕えていた当時34歳の徒目付・宮原久太夫でした。彼は、源五の介錯を行う前に、木村岡右衛門介錯も務めていました*2
後に宮原は、2人の介錯をしたことを悔い、武士をやめ松山に帰り、造り酒屋を始めたと言われています。そして、彼の菩提寺である興聖寺に源五と岡右衛門2人の供養塔を建てて菩提を弔ったということです。
その供養塔は、現在でも松山市内にある興聖寺に残されています。興聖寺には、宮原の墓も残されているほか、源五の辞世の句が刻まれた碑も立てられています。


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*1:この其角との話は実話ではないようです。ただ、茶の湯の師匠である山田宗徧(そうへん。「へん」は【ぎょうにんべん+扁】)から吉良邸で行われる茶会の日程を聞き出して同士に伝え、討ち入りの日を12月14日と確定させたのは事実らしいです。

*2:以前にも語らせていただいたのですが(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060301#p2)、松平家では「1人の家臣が2人の浪士の介錯を担当」しました。