案外近所にも日本史ネタは存在している。

思ったより早く仕事が終わったので。
妻と車で近所を一回りしたのですが。


思いもかけずに。
玉縄城城址付近なんて通り過ぎました。


「おお、こんなに現住所からほど近い場所に城址が!」と夫婦で感動。


で。
帰宅後よくよく調べてみると。
玉縄城北条早雲が築城したらしいですね(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E7%B8%84%E5%9F%8E)。

永正9年(1512年)北条早雲により築かれ、代々北条一門が城主となった。城の外堀が柏尾川と直結し、相模湾まで舟を繰り出す事が可能だった関係で水軍などを統括する重要拠点となった。


大森氏の小田原城を奪い、西相模に進出した北条早雲は東相模の三浦氏と争うが、長期戦となった。この際、武蔵の扇谷上杉家主上杉朝興が三浦氏の援軍として挟撃してくる事への備えが必要とされ、三浦半島の付け根に当たるこの地に玉縄城が築かれた。

この城。
豊臣秀吉の小田原攻めのとき、城主だった北条氏勝が降伏・開城して以降は、徳川家康支配下にあったのですが。
そのとき城主になったのが誰あろう本多正信であったと知り、驚きしました。
なんとメジャーな人物が城主だったのか。


玉縄城は、江戸時代の中頃には既に城としての役割は終えていたようです*1
まあ、平時にあっては「水軍などを統括する重要拠点」たりえなかったでしょうしね。


そして。
Wikipediaで驚愕の新事実を発見。

昭和30年頃までは比較的多くの遺構が残っていたようであるが、昭和38年(1963年)に女子高の清泉女学院が城跡に移転して以降、その多くが破却された。

モッタイナイ!!!!((C)ワンガリ=マータイ)


★★写真とか撮りたいけど…絶対変質者に間違われそうだな。人気blogランキング★★

*1:Wikipediaには「徳川政権下においても玉縄城は重要視され、家康側近の本多正信の居城となり、その後は一門の長沢松平氏の居城となった。元禄16年(1703年)2月10日、長沢松平氏上総国大多喜藩へ転封となったのを機に玉縄城も廃城となった」とありましたが、鎌倉市ホームページには「元和5年(1619年)に廃城」とあります。また、「元和の一国一城令により廃城となった」と書かれていたサイトもありました。以上のことから、私個人としては、類推するに「元和年間に城としては廃城になったものの、その後しばらくは「玉縄藩」としては存続していた。しかし、元禄16年の長沢松平氏転封により、藩自体も消滅した」のではないかと思うのですが、いかがでしょうか?