もう1人の変わりモン

今日が命日なんて出来すぎですよね*1。狙ったわけではないんですけど(笑)。
というわけで、予告どおり、蒲生君平についてです。


高山彦九郎同様に、この人も水戸学の影響を色濃く受けているようです。
キーパーソンは…やはり藤田幽谷。言うなれば、後の「尊皇攘夷思想」は、全ては幽谷から始まった…と言っても過言ではなさそうです。


彼の名を今日まで高らしめているのは。
言うまでもなく、「歴代の天皇陵が荒廃しているのを嘆いて、畿内を隈なく調査し、その結果を『山陵志』という著作にまとめたこと」によってであると言っても過言ではありません。


当時。
歴代の天皇陵は。
鎌倉時代から室町時代にかけて、戦乱が相次いだこと、また朝廷の権威が大幅に失墜したことから。
大半は、どこにあるのか、その伝承が失われてしまっていた状態でした。
平安時代天皇ですら、例えば第55代文徳天皇の陵は「江戸時代にはその所在が全く不明となっていた」(『図説天皇陵』:新人物往来社)とのことですし、第53代淳和天皇に至っては、以前弊ブログで紹介させていただいたとおり「崩御の後、遺詔に従って遺骨は砕かれて山中にまかれた」ため(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060508#p3)陵墓の治定がなかなかに難しい状態でした。ましてや、古墳に葬られていた古代の天皇は、その陵墓については様々な説が入り乱れるばかりか、入り乱れすぎてグチャグチャになってよく分かんない状態になってしまっていた…というのが現状だったようです。
藤田幽谷によって尊王思想に目覚めてしまった君平は「これではイカーン!」と思ったんでしょうね。しかし、その足で実際に畿内に赴き、隅から隅までずずずいっと調べ上げてしまうなんて…そのヴァイタリティーたるや、です。


彼の研究には、今現在の考古学的な視点で見ると誤りも決して少なくなく、今日宮内庁によって治定されている天皇陵のなかでも彼の説によらないものもままあるみたいなのですが…。
それでも、「最初にやった」ことに意義があるのではないかと個人的には思うのです。
彼がいなければ、その後のいわゆる「文久の修陵」*2もなかったかもしれませんし、今現在、まがりなりにも(いろいろ問題は抱合しつつも)全ての天皇の陵墓が治定・管理されている状態にはなっていなかったかもしれません。
そう考えると、ワタクシ的には「ちょち変わりモンかもしれないけど、エラかったヒト」という見方で彼を見つめていきたいと思う次第なのであります。


君平は。
今日フツーに使われている前方後円墳」という言葉を初めて使用した人物である、というのは、日本史マニアなら知る人ぞ知る事実ですが。
調べていくうちに。
「文化4年(1807年)、ロシア軍艦の北辺出現を契機として*3『不恤緯(ふじゅつい)』という書物を著し、幕閣に危機意識と海防の必要性を訴えた」なんて新事実も発見してしまいました。
「奇人仲間」の林子平ばりの著作です。


ちなみに。
その「奇人つながり」の林子平高山彦九郎の2人とは。
「会ったことがある」「会ったことはない」という両説真っ二つだとのことです。


★★こんなにリスペクトせずにいられないのは…私が天皇陵マニアだからであろうか? 人気blogランキング★★

*1:ちなみに…毎度おなじみの「太陽暦に換算すると」は「西暦1813年7月31日」に当たります。

*2:文久2年(1862年)閏8月、宇都宮藩主であった戸田忠恕(ただゆき)が幕府に「修復の建白」を出したことから、畿内天皇陵が一斉に治定に再検討を加えられたうえで修復されました。しかし、このときも、不確実なままで治定をしてしまったり(たとえば、天武・持統天皇合葬陵には、今日宮内庁によって治定されているものではなく、あの見瀬丸山古墳(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050623#p1)があてられていました。ちなみに、そのときの修復の様子が絵画として残っているのですが…見瀬丸山古墳、見事なまでに「円墳」として取り扱われています)、極端な例では「実際に墳墓でないところを造営して陵墓にしてしまった」例まであったようです。

*3:この年、ロシア船は択捉島樺太利尻島などをしばしば侵し、放火などを繰り返していたようです。