壮士の最期(5)

前回(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20070113#p1)のつづきで、毛利家における切腹の様子を紹介させていただきます。


検視役の意向により、いわゆる「扇子腹」ではなく、作法どおり「小刀を用いた切腹」を毛利家でも執り行うことになり。
1番目の岡嶋八十右衛門から8番目の前原伊助まで、1人当たり約10分ちょっとのペースでサクサクと切腹は進んでいきました。
この進行のペースの速さをもってしても…いかに毛利家がお預けの浪士たちを軽んじていたかというか、事務的にスピード重視で仕置を進めていたかということがお分かりいただけるかと思います*1。当然実際に腹を切った浪士は(小刀が用意されたとはいえ)いるはずもなく、三方に手がかかった瞬間に皆バッサリと介錯を受けたものと推測されています。


さて。
前原伊助切腹が終了した時点で。
残されたのは2人。
間新六と、小野寺幸右衛門でした。


9番目に呼び出されたのは、間新六でした。
彼は、切腹の場の雰囲気や、それまでのお預けのときの厳戒態勢などに思うところがあったのでしょうか。
切腹の座に入るなり。
介錯人の江良清吉*2が太刀を抜く間もなく。
三方に置かれた小脇差をいきなり掴むと。
「えぃっっ」とばかりに自分の腹にそれを突き立て。
さらに左から右に真一文字に引き裂いたといいます。


江良清吉は、慌てふためき。
急ぎ太刀を抜き。
新六の首を打ち落としたといいます。


介錯人にすれば、思わぬ不覚を取ってしまった形になったのでしょう。
江良は、検使役に一礼するや、屏風を裏返して新六の遺骸を隠し、外に運び出そうとしました。


しかし。
検視役の鈴木次郎左衛門は、「ただいまの者の様子を、今一度見届けるように」と即座に厳命しました。


毛利家の家中の者が遺骸を確認したところ。
新六は、長さ7寸といいますから、20cm以上にわたって腹を切っていたことが確認されました。


作法的には多少難ありだったかもしれませんが。
豪胆に「実際の切腹」を成し遂げた新六の評判は、たちまち江戸中に響き渡ったということです。


余談ですが。
切腹になった浪士46人の遺骸は、全て主君浅野内匠頭の眠る泉岳寺へと葬られたのですが。
間新六だけは。
姉の婿に当たる中堂又助という人物の使いの者によって引き取られ。
築地本願寺に埋葬されたといいます。


とはいえ。
泉岳寺には、ちゃんと新六の墓もあります。
当初はいわゆる「供養墓」でしたが、後年、子孫(中堂の?)の計らいで泉岳寺にある墓のほうにも分骨されたとのことです。


★★まだまだ続きますよ、赤穂浪士シリーズ。人気blogランキング★★

*1:ちなみに、その間滞りがなかったか…というと、そうではなかったようです。これに関しては次回のエントリで触れたいと思います。

*2:以前にも述べさせていただいたことがあるのですが、毛利家でも、松平家同様に「介錯人1人が浪士2人の介錯を担当」していました。江良は、既に4番目に切腹の座に就いた倉橋伝助介錯を済ませた後の再登場でした。