彼のほうが偉かったはずなのに…

「壮士の最期」シリーズは1回お休みにて失礼します。急にネタ思いついたもので。


慶長5年(1600年)3月16日。
豊後・臼杵湾に漂着した、オランダ船・リーフデ号。


後に「三浦按針」を名乗るウィリアム=アダムスや、東京の「八重洲」の地名の由来となったヤン=ヨーステンが乗っていたことであまりに有名です。


が。
このリーフデ号。
船長は、れっきとした別の人物が務めていました。


ヤコブ=クアッケルナックなる人物がその人です。


この人については。
名前を辛うじて知っていただけで、詳しい経歴などは今までいろいろ調べてみてもなかなか見つけることはできなかったのですが。
ネット全盛社会になってつくづく便利になりましたね。Wikipediaにちゃんと彼の項目があったんですよ(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B3%E3%83%96%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AF%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%82%AF)。

ヤコブ・クワッケルナック(Jacob Quaeckernaeck、?-1606年9月21日)は、オランダ人航海士。リーフデ号の船長。


始めは先任の航海士だったが、探検の途上、南米のモチャ島(チリ沖)で前任の船長がインディオに殺害されたために船長となり、太平洋横断を指揮する。船が1600年に日本の豊後国(現・大分県)に漂着した後は徳川家康に仕えたが、1605年には家康からオランダ総督マウリッツに宛てた親書を携え、リーフデ号の乗員メルキオール・ファン・サントフォールトと共にオランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へと航海する。クワッケルナックはさらに帰国の途に就いたものの、マラッカ海峡ポルトガル人に殺害された。


…「マラッカ海峡ポルトガル人に殺害された」なんて初耳でした。
Wikipediaは妄信は禁物」という「暗黙の了解」があるのですが、それでも初めて聞いた彼の「その後」に「へぇ」でした。


家康に仕え、家康の命によってマレー半島まで赴いた彼が、なぜ「帰国の途に就いた」のかは想像の域を超えません。
あるいは、故郷であるオランダが恋しくなったがゆえの行動かもしれません。


ただ。
もし仮に、彼が役目を終えてそのまま日本に戻ってきていたとしたら。
あるいは、非業の最期は遂げずに済み、日本で天寿を全うしたかもしれません。
また、それこそ、ウィリアム=アダムスやヤン=ヨーステン並みの知名度を日本史業界で誇ることができたかもしれません*1


そう考えると。
「人間の運命なんて、分かんないもんだな」と思わずにはいられません。


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*1:彼にとっては心底どうでもいいことですが(笑)。でも、「リーフデ号の船長は誰?」という問題出されたとしても、よほどの日本史マニアかクイズマニアでない限り、彼の名前を知る人はほとんどいないことと思われます。