「6世紀最強の暴君」…だったの?

さて。
1,000日目も突破したことですし。
公約どおりに日本史系のネタをガンガンいってみたいと思います。


「古墳めぐり」完結編をまだお届けしていないのですが。
ここは、以前にもチラリと触れた「あの天皇」について。


「あの天皇」とは。
第25代武烈天皇です。


古代史に興味のある方々にはご存知の方も少なくないと思いますが。
日本書紀』に伝えられている武烈天皇の残虐行為には、本当にすさまじいものがあります。
以下、現代語訳(『全現代語訳 日本書紀』(宇治谷孟講談社学術文庫)より)を列記しますが…そりゃもうヒドいもんです。聞いてくださいよ奥さん、ってなものでして。まあいってみます。歯を食いしばってご覧ください。

二年秋九月、妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。

三年冬十月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。

四年夏四月、人の頭の髪を抜いて樹の頂に登らせ、樹の本を切り倒して、登った者を落し殺して面白がった。

五年夏六月、人を池の堤の樋の中に入らせて、外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ。

七年春二月、人を樹に登らせて、弓で射落して笑った。

八年春三月、女たちを裸にして平板の上に座らせ、馬を引き出して面前で馬に交尾させた。女の陰部を調べ、うるおっている者は殺し、うるおっていない者は、官婢として召し上げた。これが楽しみであった。

…どうです。スゴいでしょ。
小学6年生のときに初めてこの記述を読んで*1「…古代の天皇には暴虐非道なのもいたんだなあ」と感嘆させられたものです。ええ、到底許されざる君子像であるはずです。


この残虐行為が「実話であったとしたならば」です。


この伝えられる武烈天皇の残虐行為には。
以前から、多くの日本史学者が疑問を投げ掛けています。


その論拠となるファクターは、大きく2つあります。
1つは、同じ『日本書紀』の武烈天皇紀の前文に掲載されている天皇の人となりを表した記述に、前後の文意がつながらない矛盾した内容が掲載されている点です。

長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令にも詳しかった。日の暮れるまで政務に終われ、知られないでいる無実の罪などは、必ず見抜いて明らかにされた。訴えを処断することがうまかった。またしきりにいろいろな悪事を行われた。一つも良いことを修められず、およそさまざまの極刑を親しくご覧にならないということはなかった。国中の人民たちはみな震えおそれた。

「またしきりに…」の前後で、この天皇の人格は真っ二つです。
「…善と悪、どっちなのよ、この天皇?」と言いたくなるような、二重人格すら疑いたくなる人となりです。
が。この引用部の「またしきりに…」以降が「後に追加されたものである」とするならば…スッキリします。
「この天皇の“悪の顔”は、後日に追加されたものなのだ」と。


それを裏付けるもう1つの論拠は。
日本書紀』と対を成すはずの『古事記』には、この天皇の残虐行為が一切記されていない点です。
ただ「長谷の列城宮にいらっしゃって、天下を治めること八年であった。この天皇には、太子がいなかった。そこで、御子代として、小長谷部を定められた。御陵は片岡の石杯の岡にある」と書かれているだけなのです。


多くの学者たちは。
「『日本書紀』編纂に当たって、武烈天皇で仁徳王朝が途絶え新たに継体天皇の王朝が始まったことを正当化するために、武烈天皇を中国の殷の紂王や夏の桀王のような暴君に仕立て上げたのだ」と考えました。
武烈天皇を悪逆非道の天皇とすることによって、王朝交代は当然であったと考えさせるようにしたのだ」と。
今日、その説は有力となっています。
なるほど、武烈天皇紀の「自らは暖衣をまとい、百姓のこごえることは意に介せず、美食を口にして天下の民の飢えを忘れた。大いに侏儒や俳優を集め、淫らな音楽を奏し、奇怪な遊びごとをさせて、ふしだらな騒ぎをほしいままにした。日夜後宮の女たちと酒におぼれ、錦の織物を褥とした」という記述を読むと…「酒池肉林」という中国の故事成語が思い出されずにはいられないところです。


また。
武烈天皇紀に「百済・末多王が無道を行い、民を苦しめたので、国人は遂に王を捨てた」という内容が掲載されています。
武烈天皇の残虐行為は、その末多王の姿とも一対の“合わせ鏡”になっているのだ…と捉えることもできます。


実像の武烈天皇はどんな人物であったのか。
今日、我々には推し量ることはできません。
ただ、武烈天皇紀に「自分は跡嗣がない。何をもって名を後世に伝えようか」と天皇が語っていたという記述を読み、その言葉通り子供もないままに崩御したという事実を考えるにつけ。
個人的には「…この天皇の実像は、書紀にいみじくも残虐行為と並んで書き残されている“静かな法律家”だったんじゃないかな」と思わずにはいられないのです。
それを、後世の歴史学者によって(ていうか「舎人親王によって」…なんですけどね(笑))「暴君」に仕立て上げられてしまったこの天皇
気の毒としかいいようがありません。
日本書紀』が成立してから、1,300年近くにわたって“冤罪”で「暴君」扱いされ続けているわけですから。


★★しかし「八年春三月」の記述は何度読んでもスゴい。人気blogランキング★★

*1:…圧倒的に「ヘンな小学生」でした自分(笑)。