終わりました。

今回の発表はなかなかにうまくいきましたですよ。
題して、「『吾妻鏡北条政子火葬記事に関する考察」。
なぜゆえに北条政子の葬送記事だけ「御堂御所の地において火葬したてまつる」と火葬の事実があえて記されているのか、源実朝も、北条義時も火葬のことは特には記されていないのに…というところを、多角的に考証させていただきました。
まあ…担当教官の先生からもご意見いただいたうえで導き出された結論としては「政子は出家してから既に25年以上も経過していたので、出家の身として火葬に付されるのは仏教上ごく当然の仕儀であった」というところだったのですが*1


それでも。
実朝が公暁に殺害された翌日に葬られるときの『吾妻鏡』の記事に「戌の剋、将軍家を勝長寿院の傍に葬りたてまつる。去夜御首の在所を知らず、五体不具なり。その憚りあるべきによって、昨日公氏*2に給ふところの御鬢をもって御頭に用ゐ、棺に入れたてまつると云々」とある点。
さらに、承久の乱後、後鳥羽上皇側近の公家が次々と斬首されるなかで、その1人藤原範茂が、斬首ではなく、足柄山の麓の早川に入水を乞うたという同じく『吾妻鏡』の記事に「これ五体の不具はもっとも後生の障碍たるべし。水に入るべき由、所望するによってなり」とあった点などを指摘し。
「五体の不具」と「後生」との関連性を指摘した点は。
高く評価をいただくことができました。
重畳至極。
(この「五体の不具」という言葉および考え方は、今日の人権的な視点からはかなり問題のあるところではありますが、鎌倉時代当時の人々の思想背景を再現するためにあえてそのまま用いさせていただきました)


吾妻鏡』は、自分にとってはとても馴染みやすい書物です。
1回読めば1つ。
3回読めば3つ。
10回読めば10個…と次から次へと論じたくなるネタが出てくる、宝の山のような書物です。
もちろん、この書物は北条得宗家に近しい人物によって著されたらしく、北条寄りの執筆姿勢や記事チョイスがなされている…という点を踏まえたうえで読み込んでいかなくてはならないところなのですが。
同時代に著された『源平盛衰記』など他の書物とよくよく比較検討しながら、鎌倉武士たちの姿を浮き彫りにしていくとよいかと思います。


この1週間。
京都に滞在し。
すっかり京都に馴染んだつもりでいたのですが。
最後の最後に「やっぱり自分は相模の人間なのだ」という思いを深くして京都を後にすることとなったのは、実に面白い巡り合わせだと思いました。


あと1時間足らずで、自分は「バスの中の人」となります。


★★実に有意義なスクーリングでした。人気blogランキング★★

*1:ちなみに、北条義時も実は元仁元年(1224年)6月13日に没する直前に出家していますが…これは、死の直前に出家して往生を期するいわゆる「臨終出家」ですので、火葬の記事(あるいは事実)がなかったとしても矛盾は来たさないのでは…というのが自分と担当教官の一致した意見でした。

*2:宮内公氏。兵衛尉だったといいます。