びっくり。そして激怒。

各紙が一斉に報じたこのニュースに、日本史マニアは度肝を抜かれました。


足利尊氏像の手首盗難 等持院 義満像の刀なども被害」(http://www.kyoto-np.co.jp/article.php?mid=P2008100400094&genre=J1&area=K00

足利尊氏ゆかりの等持院京都市北区)で、江戸時代につくられた尊氏の木像の左手首などが盗まれていたことが4日、分かった。
寺によると、木像(高さ約1メートル)は足利氏代々の将軍像を安置した霊光殿にあり、9月3日に職員が左手首部分が抜き取られているのを見つけ、北署へ届けた。12代の義晴像の左手首、義満像など5体の腰にあった刀の柄がなくなっていることも分かったという。いずれも文化財指定は受けていない。霊光殿は参拝者が自由に出入りできるという。
等持院は1341年、尊氏が夢窓疎石を開山としてこの地に創立した。尊氏の墓所としても知られる。


(写真:左手首部分が抜き取られてなくなった足利尊氏の木像(京都市北区等持院))

↓手首があった頃の尊氏像。

↓同じく、義晴像。


この等持院には。
何度も行ったことがあります。
件の霊光殿には、足利将軍歴代(5代義量、14代義栄を除く)の木像が安置されていて、初めてそれを目にした自分(当時中学1年生)は言いようのない感慨を催したものです。


機械警備やビデオカメラがなかったことから「寺院サイドの不備」を指摘する声もあるようですが。
そこはそれ、「性善説」にのっとってのことだったのでしょうから、一概には寺院サイドは責められないところだと個人的には思います(保険くらいには入っていてもらいたいものですが…)。


何より許せないのは。
こんな心無い行為によって、これまで自由に見ることができた貴重な歴史上の財産が、2度と見ることができなくなってしまう可能性もある―ということです。
単なる興味本位やイタズラ半分でやったのだとしたら…犯人は万死に値します。自分の中では(笑)。


これらの木像には。
有名なエピソードがあります。


文久3年(1863年)2月23日。
京都の三条河原に、木像3体の頭部が晒されているのを人々は目にしました。


等持院に忍び込んだ浪士が。
足利尊氏、義詮、義満の木像の首を持ち帰って晒したものでした。


『東西紀文』という書物に、詳細が次のように記されています。

三条(と)四条の間に河原に晒しこれある首の下の札は等持院の飾牌にて、黒塗りにて、金にて認(したた)めこれある上を、はりがね(針金)にて下げこれあり。(中略)等持院御霊屋番人六人これあるを、抜き身にて追い払い、役僧一人に案内致させ候由。

犯行に及んだのは。
尊王の浪士、三輪田綱一郎・師岡節斎らでした。
後醍醐天皇に不忠を働いた(と、当時の水戸学に端を発する尊王思想では考えられていた)足利尊氏ら3代の木像を晒すことによって、江戸幕府に対する痛烈な批判をなすことがその目的でした。


余談ですが。
この2月23日というのは、例の浪士組が京に到着した日で。
近藤勇ら後の新撰組メンバーたちも、この梟首された木像を目にしたことと思います。


さらに余談ですが。
このとき晒された足利義満の首は。
実は、たまたま入れ替えられて置かれていた義持の首であったといいます。


2008年の話に戻ります。
首を晒されてから146年経った今。
今度は手首をも奪われた尊氏像。
気の毒でなりません。


犯人の目的や、手首の行方はまだ定かではありませんが。
無事に帰ってくることを祈るのみです。


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