陵墓マニア、まかり通る(3)

完結編です。


黒谷の金戒光明寺を後にし。
周囲を走っていると。
後一条天皇菩提樹院陵を見つけました。


娘である、後冷泉天皇皇后章子内親王との合葬陵…ということになっています。
↓「後一条院天皇 □□□□(携帯カメラだと精度が低くて解読不能。「後冷泉院皇后」か?)章子内親王 菩提樹院陵」の石碑。

「後一条天皇」という表記に注目。「天皇の諡は、『○○院』という院号の『院』を除いたものとする」と大正末期に定められる以前のものと推測されます。


この後一条天皇陵。
実は、修士論文の研究テーマの候補の1つとなっている陵墓でして。
弊ブログからリンクを貼らせていただいている『平安京閑話』でおなじみの山田邦和教授の研究論文などを興味深く拝読させていただいた直後だっただけに。
予期せぬ巡り合いに、運命的なものを感じずにはいられませんでした。
修論のテーマが天から降りてきそうな、そんな錯覚すら覚えました。


菩提樹院陵」の名が指し示すように。
後一条天皇は、長元9年(1036年)4月17日に崩御し、荼毘に付された後、母である藤原彰子が建立した菩提樹院に遺骨が安置されました。
つまり、「遺骨を祀る廟堂がすなわち陵墓だった」ということに他なりません。
この後一条天皇以降、確認できるだけで、後朱雀、後冷泉、後三条、白河、堀河、鳥羽、近衛、後白河、二条、六条、高倉…と、保元の乱によって異国の土となった崇徳天皇を除く全ての天皇は、同様の葬送形式を採っているようです。


ただ。
菩提樹院は。
その後の相次ぐ戦乱の中で、所在地が不明となってしまいました。
当然、後一条天皇の遺骨もまた、行方不明となってしまったことでしょう。


現在、宮内庁によって治定されている菩提樹院陵の地は。
明治22年(1889年)に定められた場所です。
文献や先行研究、はたまた文久の山陵修復などの経過を踏まえて決められたものであるとは思いますが、これが確かなものであるということは…断定は到底できません。
当然、この地に後一条天皇の遺骨が埋葬されていかと聞かれれば「可能性は限りなく0に近い」と言わざるを得ないところです。


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