このニュースには触れずにはいられまい。

卑弥呼宮殿の一角か 纒向遺跡で柵など出土」(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/233756

邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の建物跡(柱穴)や凸字形の柵(さく)が見つかり、市教育委員会が20日発表した。
過去に見つかった建物跡とあわせ、3棟が東西に整然と並ぶことも確認。当時、方位に合わせて計画的に建てられた例は極めて珍しい。
女王・卑弥呼が活躍した時期とほぼ一致しており、卑弥呼がまつりごとを行った宮殿の一角との見方が浮上、邪馬台国畿内説に弾みをつけそうだ。
調査は、約100メートル四方の高台のうち、西端約400平方メートルで実施。新たな建物跡は一辺が6メートル以上あり、昭和53年に見つかった建物跡(一辺5メートル)の東側で見つかった。その西側で以前、見つかっていた柱穴は同様の建物跡と分かった。
3棟が高台の西端に位置することから、さらに東へ発掘を進めれば、神殿のような中心的な建物が見つかる可能性がある。
柵は、全体の長さが約40メートル。53年発見の建物跡を凸字で囲むように南北へ伸び、東に折れ曲がっている。
3棟は、西端の一棟がある「外郭(がいかく)」と、凸字形の柵に囲まれた2棟がある「内郭(ないかく)」に分かれた宮殿構造だった可能性もある。市教委は「建物群が特別な施設であることは間違いない」としている。
現地説明会は22日午前10時と午後1時から。JR巻向駅のすぐ西で、駐車場はない。


(写真:大規模な神殿跡とみられる柱穴が出土した纏向(まきむく)遺跡(手前)。中央は箸墓古墳=18日午後、奈良市桜井市(本社ヘリから、飯田英男撮影))

「「卑弥呼の宮殿」邪馬台国論争が再燃」(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/233748

畿内か、九州か−。宮殿を思わせる建物群跡が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡。「卑弥呼の宮殿の手がかりが見えてきた」「邪馬台国には、まだ遠い」。邪馬台国論争に再び火がついた。
卑弥呼が中国・魏に使者を送ったのは239年。今回見つかった建物群跡は、まさにこの時期にあたる。纒向遺跡邪馬台国の中心とみる石野博信・兵庫県立考古博物館長は「方位を合わせた構造は、中国の宮殿と共通している。卑弥呼は、魏の使者を迎えるにあたって外交交渉上、国の威容を整えようとしたのかもしれない」と推測する。
辰巳和弘・同志社大教授(古代学)も「魏志倭人伝は『卑弥呼は鬼道(きどう、呪術)につかえ、よく衆を惑わす』と記す。まさに女王が祭祀(さいし)や政治を行った場所の一部だろう」。
今回の発掘現場を昭和53年に調査した寺沢薫・奈良県橿原考古学研究所総務企画部長は、西側に張り出した柵(さく)と、方位を合わせた建物群の計画性に注目し、「儀式を行う特別な建物だったことは間違いない。中心施設はさらに東に埋まっているのだろう」と今後の調査に期待をよせた。
勢いづく畿内説に対し、九州説を唱える高島忠平・佐賀女子短大学長(考古学)は慎重な姿勢を崩さない。「数棟の建物跡と柵が見つかっただけで、邪馬台国を議論するのは時期尚早。全体構造が明らかになっていない段階では、九州と比較もできない」と指摘し、魏志倭人伝の記述や発掘成果をもとに「邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡佐賀県)などを有力候補とした北部九州であることは動かない」と話した。

…貴重な発見ですが。
当たり前のことですが、やはりこれだけでは「九州説か、畿内説か」の決定打には至らないようです。
重要な状況証拠の1つにはなってくるかもしれませんが。


どうか、双方を主張する人たちが、考証結果を曲げて解釈して「邪馬台国は自分たちの住んでいるあたりの近くにあった!」と我田引水的な主張をすることがありませんように…*1


★★また纒向に行きたくなった。人気blogランキング★★

*1:今現在の双方の主張がそうだと言っているわけでは決してありません。そのことだけは特に注記させていただきます。