懐かしい匂いがした。

本日。
高校時代の後輩の結婚式にお呼ばれしてきました。


会場は。
府中の大國魂神社
そう、文久元年(1861年)8月27日、近藤勇が天然理心流宗家四代目襲名を披露する野試合が行われた、あの神社です*1


先週の平塚八幡宮に続いて、由緒を紹介させていただきます(http://www.ookunitamajinja.or.jp/yuisho/index.php)。

鎮座地:東京都府中市宮町3-1


御祭神:大國魂大神


御由緒:
当社のご祭神は、大國魂大神[おおくにたまのおおかみ]を武蔵の国魂の神と仰いでお祀りしたものである。
この大神は素盞鳴尊[すさのおのみこと]の御子神でむかしこの国土を開拓され、 人民に衣食住の道を授け、医薬禁厭等の方法をも教えられこの国土を経営されたが、 天孫降臨に際してその国土を、天孫瓊々杵[ににぎの]尊にたてまつり、 出雲の杵築の大社に鎮座されました神であることは、世に知られるところである。
当社の起源は、人皇第十二代景行天皇四十一(111)年五月五日大神の託宣に依って 創立されたものである。出雲臣天穂日命[のおみあめのほひのみこと]の後裔が初めて 武蔵国造[くにのみやつこ]に任ぜられ当社に奉仕してから、代々の国造が奉仕して その祭務を掌られたといわれ、その後、孝徳天皇(645-654)の御代に至り、 大化の改新(645年)のとき、武蔵の国府をこの処に置くようになり、 当社を国衙の斎場とし、国司が奉仕して、国内の祭務を総轄する所にあてられた。
又、国司が国内社の奉幣巡拝、又は神事執行等の便により国内諸神を配祀した、 これが即ち武蔵総社の起源である。
後に本殿の両側に国内著名の神、六所[ろくしょ](小野大神・小河大神・氷川大神・ 秩父大神・金佐奈大神・杉山大神)を奉祀して、六所宮とも称せられるようになった。
寿永元年(1182)に至り、源頼朝が葛西三郎清重を使節として、 その室、政子の安産の祈願が行われた。
文治二年(1186)頼朝は武蔵守義信を奉行として社殿を造営し、また貞永元年 (1232)二月、将軍頼経の代にも武蔵守資頼を奉行として社殿が修造せられた。
又、天正十八年(1590)八月、徳川家康が江戸へ入城してからは、 武蔵国の総社であるために殊に崇敬の誠をつくし、社領五百石を寄進され、 社殿及びその他の造営に心力をつくされた。
正保三年(1646)十月、類焼により社殿は焼失したが、寛文七年(1667) 将軍家綱の命により、久世大和守広之が社殿を造営し現在に至る。 形式は三殿を横につらねた朱塗りの相殿造りで、屋根は流造りであるが、 慶応年間に檜皮葺[ひわだぶき]が銅葺に改められた。 又、本殿は都文化財に指定されている。
明治元年(1868)勅祭社に準ぜられ、同七年(1874)県社に列し、 同十八年官幣小社に列せられた。
本社はもともと大國魂神社と称したが、中古以降、武蔵の総社となり、 又国内著名の神六所を配祀したので、「武蔵総社六所宮」の社号を用いた。ところが 明治四年(1871)に、もとの社号に復し「大國魂神社」と称するようになった。
当社は神威殊に顕著であるので、古来より崇敬者は、武蔵はもちろん、 関東一円に亘っている。
五月五日には例大祭が行われるが、この祭が有名な国府祭で、当夜八基の 神輿が古式の行列を整え、消燈して闇夜に御旅所に神幸するので、 俗に「闇夜[くらやみ]祭」といわれている。 現在では昭和三十六年(1961)より神輿の渡御は夕刻に改められた。

…今回。
スピーチという、自分には身に余る大役を仰せつかってしまったので。
よしゃーいいのに、「ここ大國魂神社は、文久元年(1861年)8月27日…」なんて一席ぶってしまいました。
嗚呼日本史マニア…。


★★近藤勇の頃は「六所宮」と呼ばれていたのですね。人気blogランキング★★

*1:かつてこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050928#p1)で詳しく語っていますので、ご参照ください。