承久の乱は本当に「謀叛」だったのか?(3)

…つづきです。


自分がこれまで一貫して話をさせていただいている趣旨は。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士や貴族は、天皇上皇その人や、彼らの命令を奉じて、初めて事を起こすことができる存在であった」ということです。


そのことは、承久の乱に勝利した後、幕府方がまずしたことが何であるかを見てみれば、さらに合点がいくはずです。


京に入った北条泰時・時房が、義時ら幕府高官の名代として1番最初にしたことは。
出家していた高倉天皇の皇子・行助法親王守貞親王)を「後高倉院」として治天の君となし。
それまでの仲恭天皇に代わって、院の王子・茂仁王を天皇の位につけた(後堀河天皇)ことでした*1
このことこそが、これまでの主張の何よりの証明ではないでしょうか。
幕府が後高倉院であり後堀河天皇でありを奉じることなくして、後鳥羽・順徳両上皇の配流(後に土御門上皇も自らの意思で土佐に遷ります)はなしえなかったはずです*2


「義時追討」の綸旨を出し、鎌倉幕府の武士政権を潰そうとした後鳥羽と順徳、およびその連枝である仲恭天皇は排除しなくてはなりません。
しかし、それを実行するためには、幕府方には「奉じるべき新たなる存在」が必要でした。
その「新たなる存在」こそが、後鳥羽と血脈も所縁もない後高倉院であり、後堀河天皇であったはずです。
彼らの存在なくしては、いかに戦勝者であった義時をしても「天皇廃位」「上皇配流」といった行動はなしえなかったはずではないでしょうか。


乱から100年以上後に。
北畠親房は『神皇正統記』のなかで、次のように述べています。

頼朝高官ニノボリ、守護ノ職ヲ給、コレミナ法皇*3ノ勅裁也。ワタクシニヌスメリトハサダメガタシ。後室*4ソノ跡ヲハカラヒ、義時久ク彼ガ権ヲトリテ、人望ニソムカザリシカバ、下*5ニハイマダキズ有トイフベカラズ。一往ノイハレバカリニテ追討セラレンバ、上ノ御トガトヤ申ベキ。

幕府政権は頼朝が後白河法皇より許されたものであり、それらを継承した政子や義時の政治が特に人々の期待に背いたものではなかったのならば、幕府を追討しようとしたことは後鳥羽上皇らの過失である――と親房は主張しているのです。
そして、それに続く1文が「謀叛オコシタル朝敵*6ノ利ヲ得タルニハ比量セラレガタシ」であることにはぜひ注目しておきたいです。親房は、義時らの行動を「謀叛」とは考えてはいないのです。100年以上経過した後にも承久の乱がこのような視点で捉えられていたという事実はぜひ押さえておいてしかるべきでしょう。


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*1:このことには「仲恭天皇の父である順徳上皇が積極的に倒幕運動に関与していた」ことが影響していると考えられています。

*2:厳密に言うと、後高倉院院政開始は承久3年(1221年)8月16日のことであるといいます。それが正しければ、後高倉院院政開始は仲恭天皇廃位(7月9日)や後鳥羽上皇の配流(7月13日)、順徳上皇の配流(7月20日)より時系列では後のことになってしまいます。ただ、『吾妻鏡』承久三年七月八日条に持明院入道親王(守貞)。御治世あるべしと云々。(中略)今日、上皇御落飾。御戒師は御室(道助)。これに先立ち、信実朝臣を召して御影を摸さる」という記事を見つけることができます。この『吾妻鏡』の記述を信ずるならば、正式に院政を開始する以前に、そして仲恭天皇廃位や後鳥羽・順徳両上皇の配流に先立って、後高倉院が「治天の君」として幕府に奉じられていたと見て差し支えはないと思われます。

*3:後白河法皇

*4:北条政子

*5:臣下。ここでは北条義時らのことを指します。

*6:当然ですが、足利尊氏のことを指すと考えられます。これは余談ですが、北畠親房は、自分が仕える後醍醐天皇に反旗を翻した尊氏のことを「謀叛オコシタル朝敵」と糾弾していますが、尊氏は尊氏で、北朝持明院統光明天皇を奉じて戦っているという事実にもまた着目すべきでしょう。