そこのけそこのけ陵墓マニアが通る(1)

さてさて。
長らくお待たせいたしました。


今回のスクーリング中に探訪した天皇陵について。
いつもの如く、写真を交えつつ紹介させていただきたいと思います。


初日。
京都に到着直後。
↓黒谷の金戒光明寺近くに見つけた、陽成天皇神楽岡東陵です。



↓「陽成天皇神樂岡東陵」の石碑。


この陵墓。
昨年訪ねた後一条天皇菩提樹院陵と、ホント目と鼻の先のところにありました。
どうして昨年スルーしてしまったのか…。


住宅街の中に忽然と現れるような印象の陵墓です。
京都の市街地って、こんな感じで陵墓と住宅が何の違和感もなくマッチしているんですよね…。


ところで。
せっかく「目と鼻の先」ですので。
後一条天皇菩提樹院陵も再度訪れました。


目的は1つ。
昨年確認できなかった、次の部分を改めてこの目で検証してみることでした(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20081220#p1)。

↓「後一条院天皇 □□□□(携帯カメラだと精度が低くて解読不能。「後冷泉院皇后」か?)章子内親王 菩提樹院陵」の石碑。

「後一条天皇」という表記に注目。「天皇の諡は、『○○院』という院号の『院』を除いたものとする」と大正末期に定められる以前のものと推測されます。

…というわけで。
↓今年撮影した写真がコレです。

この写真でもまだぼんやりとしているのですが。
近くに寄って確認してみたところ、「□□□□」の部分は「後冷泉院天皇中宮という2行書きでした。


これらの陵墓の石碑は。
前述の通り、「天皇の諡は、『○○院』という院号の『院』を除いたものとする」と大正末期に定められて*1以降、「院」を外したものに立て替えられたと推測されるのですが*2
なぜゆえ、この菩提樹院陵だけが、昔のままの石碑が残された状態なのでしょうか?


とはいえ。
この石碑、かなり崩落激しいので。
そう遠くない未来に、新しいものに替えられる可能性も少なくありません。


そうしたら。
そのときには「後一条天皇 後冷泉天皇中宮章子内親王 菩提樹院陵」と「院」を取った形に直されるのでしょうか?


★★またまたしばらく続くのです。人気blogランキング★★

*1:その後調べたところ、例の『山陵』(上野竹次郎:名著出版)に正確な時期が掲載されていました。「大正十五年三月九日、天皇御追號中院ノ字ヲ省クコトニ御裁定アラセラレタリ」とのことです。

*2:大正時代の文献に掲載された陵墓の古写真には、他の陵墓でも普通に「○○院天皇○○陵」という石碑が確認できます。