そこのけそこのけ陵墓マニアが通る(2)

つづきです。


スクーリング初日の昼休み。
図書館でウダウダしていてもよかったのですが。
ふと「大学の周辺にも、まだ行ったことのない陵墓いっぱいあるはずだよな」と思い起こし。
一念発起して、天候と体力が許す限り歩き回ってみることにしました。


まずターゲットにしたのは。
金閣寺道のほど近く、住宅街の中に忽然とあるように見えた、三条天皇北山陵です。



↓「三条天皇北山陵」の石碑。

後ろの灯籠の胴体部分にちゃんと「北山陵」の文字が彫られているところに注目。


寛仁元年(1017年)5月9日に崩御した天皇は。
船岡山の西辺の岩陰で荼毘に付され。
その遺骨は、北山の寺の後山に収められたとも、小寺の中に収められたともいうのですが…。
お約束で、江戸時代にはその位置が不明の状態になってしまっていました。
文久の山陵修復の際にも「取調中」とただ記録にあるのみで、その位置は定められていませんでした。
谷森善臣も、慶応3年(1867年)10月に朝廷に提出した著書『山陵考』のなかで「さて寺ノ後山といひ小寺の中なといひて、其寺の名も知られされハ、何を便に尋奉るへき因もなきハいと口惜き極みにそある」と述べています。


三条天皇陵の位置が。
大文字山の麓、現在の京都市北区衣笠西尊上院町の地に定められたのは。
実に、明治22年(1889年)のことでした。


このあたりの流れは。
修士論文にも少なからず関連してくる可能性があるところなので。
しっかりと押さえておきたいところです。


三条天皇といえば。
藤原道長との確執。
そして、眼病による不本意な退位…と。
苦悩の多い生涯を送ったとされている天皇です。


小倉百人一首』に収められている。
「心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」という歌は。
天皇の生涯と照らし合わせたうえで聞くと、何という哀しい響きをもって聞こえてくる歌かと思わされるから不思議です。


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