それでも陵墓マニアは帰ってくる(1)

というわけで。
「今回の成果」です。


京都に到着直後。
↓国道1号線沿いに、白河天皇成菩提院陵を見つけました。



↓「白河天皇成菩提院陵」の石碑。


阪神高速を頂く幹線の道っぺりに忽然と現れる陵墓なので。
思わずスルーしてしまいそうになりました。


「成菩提院陵」の名前が示すとおり。
かつて鳥羽離宮が置かれたこの地には「成菩提院」という名の寺院が存在しました。


その寺院こそ。
白河法皇が、自分が崩じた後に遺骨を収めて弔うために建てた寺院でした。


平安時代も後期になると。
このように「天皇が崩じた後、遺体は荼毘に付し、その後遺骨は寺院・堂宇に収める」という葬送形態が一般化してきたようである…ということは、以前に弊ブログでも述べさせていただいたとおりです(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20081220#p1)。


参考までに。
後一条天皇から高倉天皇までの陵墓の名称を列記してみると。
それは明らかです。

讃岐国に配流され、そこで不遇の生涯を閉じた崇徳天皇以外は。
みな一応に、陵の名前に「寺」「院」がついているのに気づいていただけるかと思います。


さて。
白河天皇陵についてです。


自分、陵墓について調査する際、参考にさせていただいているブログがあります。
「京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内」さん(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700)というところなのですが、陵墓や陵墓参考地についても、とても詳細な記述や多数の写真が多数掲載されていて、研究をする際の一助とさせていただいています。
今回は、そちらの「竹田の天皇陵その1(白河天皇成菩提院陵)」(http://blogs.yahoo.co.jp/hiropi1700/13818467.html)から一部引用させていただきます。

天永二年(1111)、白河法皇は、自身の葬堂・墓所として鳥羽離宮の泉殿内に三重塔を建立しました。泉殿は、その後に鳥羽上皇によって建立された東殿(及び安楽寿院)の直ぐ西方に位置していて、東殿建造以前は、鳥羽離宮の最も東に位置する御所でした。
しかし、大治四年(1129)七月に白河法皇崩御した時点では、三重塔に付属する遺骨を納める御堂・成菩提院(じょうぼだいいん 泉殿御堂成菩提院)がまだ完成していなかったので、火葬にされた後、一旦、遺骨は香隆寺(北区平野付近にあったと推定される寺院 ブログの二条天皇香隆寺陵などを参照下さい)に納められました。そして、天承元年(1131)七月に、成菩提院が完成すると、白河法皇の遺言に従って、鳥羽上皇は直ちに塔内に遺骨を改葬させました。


現在の白河天皇成菩提院陵(伏見区竹田浄菩提院町)は、この跡地を推定して造られています。
残念ながら、当初あった三重塔を失って方丘墳墓しか残っていませんが、この三十三メートルの正方形の墳墓は、発掘調査によって元々は一辺五十六メートルの正方形で、周囲に幅約八.五メートルの堀が巡らされていたことが判明しているということです。そして、この方形区域の中央に成菩提院の三重塔が建立されて、その床下に遺骨が納められていたと考えられています。

これらについては。
『山陵』(上野竹次郎:名著出版)にも同様の記述があります。

陵ハ山城国紀伊郡竹田村字浄菩提院ニ在リ。号シテ成菩提院陵ト云フ。蓋シ御願寺ノ号ニ取レルモノ。(中略)陵上松樹羣生ス。是レ所謂鳥羽三層塔ノ遺墟ニシテ、即チ御蔵骨ノ地ナリ。(中略)天皇嘗テ鳥羽ニ層塔ヲ起立ス。崩後、鳥羽院上皇勅ヲ刑部卿平忠盛ニ下シ、帝ノ仙居タリシ三条第西対屋ヲ鳥羽ノ泉殿ノ趾ニ移シテ更ニ仏堂ヲ建立セシム。天承元年六月工ヲ起シ、七月八日落慶ス。成菩提院是レナリ。乃チ其ノ翌日九日ヲ以テ、御骨ヲ香隆寺ヨリ移シテ彼ノ塔下ニ蔵メ奉ル。
(注.漢字表記の旧字は適宜新字に改めました)

三重塔は。
『山陵』によると、建長元年(1249年)火災により焼失し、それ以降再建されることはなかったとのことです。


この鳥羽周辺の陵墓は、江戸時代にはかなり治定がスクランブルしていたみたいで。
この白河天皇陵は、元禄10年(1697年)幕府が調査した際には「近衛天皇陵である」と考えられていたみたいです。
そして、現在の鳥羽天皇陵が白河天皇陵、近衛天皇陵が鳥羽天皇陵である…と。
これらはいずれも『山陵』の記述ですが、江戸時代末期に著され、弊ブログでもしばしば紹介してきた谷森善臣の『山陵考』「成菩提院陵」にも「然るにこの塔壇を 美福門院御塔の跡にて 近衛帝の御陵なる由山州名跡志なとに云へれと」とあるのは、これらの指摘と符丁を合するものであると言っていいでしょう。


ところで。
『山陵考』には、この成菩提院陵、「元禄10年(1697年)から15年(1702年)の間に石筒を取り出したことによって窪んだ箇所がある。これは三重塔の下壇にあった石筒で、崩御の後に骨壺を納めた場所であるが、それが畏くも掘り出されてどこかへと持ち去られたのであろう。畏れ多いことである」という記述もあります。
つまり…白河天皇陵は、盗掘ないし破壊を受けて、遺骨が行方不明になってしまっている状態のようです。
『山陵』にも大同小異の記述がありますが、同じ文献(『山州名跡志』など)がソースのようです。


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