それでも陵墓マニアは帰ってくる(2)

つづきです。


白河天皇陵からさらに東に移動すると。
住宅地の中に、安楽寿院という寺院を見つけることができます。


その寺院の南側に。
近衛天皇安楽寿院南陵はあります。





↓「近衛天皇安楽寿院南陵」の石碑。


多宝塔のフォルムが美しい陵墓です。
いわゆる「古墳」でない、堂塔型の陵墓のなかでは、個人的に1番美しいものであると思います。


天皇陵」というと。
今日のイメージでは「拝所に鳥居があって、その向こう側は円丘になっていて…」というイメージがあるのですが。
これらは全て、幕末から明治期にかけての修陵によるものであって。
本来的には、この近衛天皇陵や、次に紹介する予定の鳥羽天皇陵のような形のものだったのです。
ただ…それらの堂塔が焼失してしまい、幕末に至るまで荒廃したり、もっと悪いケースでは所在不明になってしまったがために、往時の様子を留めていないだけなのです。


この陵墓の説明をするには。
まず、安楽寿院について語らなくてはなりません。


安楽寿院とは。
鳥羽天皇が、自らが崩じた後に遺骨を納めるために建立した寺院です。
そう、彼の祖父であった白河天皇が成菩提院を建立したのと同じパターンです。


天皇は。
成菩提院と同じく、安楽寿院に三層塔を建立して、自らの陵墓となすつもりでした。
この塔は「本御塔」と呼ばれていました。
(これについては、鳥羽天皇陵の項で詳しく触れます)


一方。
彼は、自らの寵姫であった美福門院・藤原得子のために。
本御塔の東南に、彼女崩後の陵となすための多宝塔を建立します。
この塔は、天皇(当時は退位・出家の後で「法皇」でしたが)が崩じた翌年の保元2年(1157年)12月2日に落成し、「新御塔」と呼ばれていました。


ところが。
永暦元年(1160年)11月23日、美福門院が崩ずるに当たって。
彼女の遺令により、その遺骨は高野山に納められることになりました。
今日「鳥羽天皇皇后藤原得子高野山陵」として伝わっている陵墓がそれです。


このことによって。
「新御塔」は、本来の主を失ったまま、“空家”の状態となってしまっていました。


そこで。
どういう経過があったかは不明ですが。
鳥羽天皇を父に、美福門院を母に生まれていた近衛天皇――父母に先立って久寿2年(1155年)7月23日に17歳の若さで崩御していましたが――の遺骨が、先に納められていた知足院という寺院*1から改葬されて、「新御塔」に納められることになりました。
近衛天皇崩御から8年、美福門院の崩御から3年が経過した、長寛元年(1163年)11月28日のことでした。


この新御塔。
本御塔が焼失した永仁4年(1296年)8月30日の火災の際にも焼け残り。
さらに天文17年(1548年)に安楽寿院が再度火災に見舞われた際にも類焼をまぬがれ。
鎌倉時代から室町時代を経て建立当時の姿を伝えていたのですが。
慶長元年(1596年)閏7月13日に発生したいわゆる「慶長伏見地震」には勝てず、遂に倒壊してしまいました。
現在伝わる多宝塔は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼片桐且元を普請奉行として再建したものです。


この多宝塔による陵墓が廃絶することなく今日まで伝えられたのは。
ひとえに、安楽寿院が廃寺とならずに残っていたことによるものでしょう。
換言すれば、この近衛天皇陵(と次に紹介する予定の鳥羽天皇陵)は、「安楽寿院が、その寺院の一部として管理していたがゆえに、往時の姿を留めていた」ということに他なりません。
それはまさに「近代の堂塔式陵墓は、寺院がその一部として管理しえたか否かによって、継承されるか行方不明になるか死命を分けた」ということなのでしょう。
そのことは、泉涌寺と月輪陵のあり方を見ても明らかであると思います。
というよりは、ズバリ「寺院そのものが存続していたか否かに左右されていた」…ということなのかもしれませんが。


さらに付け加えると。
現在近衛天皇陵として伝わるこの多宝塔が、江戸時代にどこまで「近衛天皇陵である」として認知されていたかも、疑問が差し挟まれる余地があるところだと思います。
安楽寿院サイドとしては、この多宝塔を自分の寺院の一部として管理していても、この多宝塔が近衛天皇陵だとはっきり認識していたのでしょうか。
否、「天皇の埋葬地」と認識していたとしても、寺院と陵墓が混然一体の存在であり、両者の垣根は厳然と区別されてはいなかった…ということなのではないでしょうか。
このあたりの考えは、鳥羽天皇陵のエントリに項を譲りますが…。


『陵墓と文化財の近代(日本史リブレット)』(高木博志:山川出版社)によると。
陵墓と文化財の近代 (日本史リブレット)
「すでに一八六四(元治元)年に安楽寿院の多宝塔は、文久の修陵を画期に近衛天皇陵として寺院から切り離され木塀で囲まれた」とあります。
つまり、江戸時代後期から幕末にかけての「修陵」の機運の高まりと相まって、「陵墓を陵墓としてはっきりと認識し、修復・管理するようになった」ということなのでしょう(近衛天皇陵については、多宝塔自体にはほぼ手はつけられていないようですが)。


近衛天皇陵の話に戻ります。
このような美しいフォルムを持つ陵墓が。
たとえ江戸時代初期の再建であったとしても、400年もの月日を越えて今日その姿を伝えていることに奇跡を感じずにはいられません。


幕末から明治にかけての修陵は。
それはそれで、時代の流れのなかにおける作業であったと思うので、それ自身を否定をするものではないのですが。
平安時代後期から末期にかけての堂塔型陵墓とは、本来的な形としてはこの近衛天皇陵のようなものであったはずなんですよね。
そのことをしっかりと認識したうえで、今後の研究を進めていかなくてはならない…そんな思いを強くしました。


★★しばし後に続きます。人気blogランキング★★

*1:現在の京都市北区紫野付近にあったと考えられています。