それでも陵墓マニアは帰ってくる(5)

というわけで。
ここからは後半戦のお話になります。


修理を終えた車を無事に引き取り。
前回行くはずだった陵墓をいざ調査!と勇んで飛ばしました。


途中、こんなイヴェント(http://www.eonet.ne.jp/~umearasi/topics.html#mifune)当日で大勢の観光客でごった返す渡月橋をスルーするという荒業を披露したのは、以前に語らせていただいたとおりです(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20100518#p1)。


そんなこんなで。
嵯峨・祇王寺のほど近く。
もう少し足を伸ばせば化野念仏寺という場所に。
この日最初の目的地はありました。
後亀山天皇嵯峨小倉陵です。


車を近隣の時間貸駐車場に預け、いざ出発。


↓こんないい感じの参道でした。

↓「後亀山天皇嵯峨小倉陵参拝道」の道標。

横の「清和帝陵」「檀林皇后陵」の文字がマニア心をくすぐります。
清和天皇陵までは「二里四町」ということは、約8.4km離れている格好で、この道標にどれだけの意味があるか疑ってしまいますが(笑)。


↓左手には竹林。

↓参道は新緑が鮮やかでした。


↓150mほど進むと、陵墓に到着。



↓「後亀山天皇嵯峨小倉陵」の石碑。

↓灯籠に入れられている「嵯峩小倉陵前」の文字も見逃せません。


正面からの写真ではく分からないのですが。
後亀山天皇陵は、現在治定されている天皇の陵墓のなかではおそらく唯一の、五輪塔の陵墓です。
↓ちょっと横手に回ると、よく様子が分かります。


↓その横には空掘らしきものも。


後亀山天皇とは。
ご存知のとおり、南朝最後の天皇です。
元中3年(北朝・明徳3年)(1392年)閏10月5日、北朝後小松天皇に神器を譲り渡す形で、南北朝は合一を見ました。


しかし。
「今後皇位南朝北朝交互に継承する」とされた合一時の約束は、後にあっさりと反故にされ。
後小松天皇の後は、彼の皇子である躬仁親王が即位し、称光天皇となりました。
そして、南朝から皇位を継ぐ者は、2度と現れませんでした。


後亀山天皇に「太上天皇」の称号が贈られたのも、合一後1年半を経過した後だった…という事実も。
事実上は「南北朝合一」ではなく「北朝への南朝の吸収」であったことの証明なのかもしれません。


そんな日々に憤懣を募らせていたのか。
嵯峨の大覚寺に身を寄せていた後亀山法皇(応永元年(1394年)2月に出家していました)は、応永17年(1410年)11月27日、突如吉野に出奔します。
そして、幕府の度重なる帰還要請に応えて京に戻るのは、実に6年後の応永23年(1416年)9月のことでした。


後亀山法皇崩御したのは。
応永31年(1424年)4月12日のことであると言われています。
例の『山陵』(上野竹次郎:名著出版)には「玉川山陵ニ葬リ、後御骨ヲ福田寺ノ御塔ニ蔵メ奉ル」とありますが、「玉川山陵」については全く不明です。


「福田寺」というのが。
江戸時代頃まで*1嵯峨の地にあったという浄土宗の寺院で。
その西側裏手にあって「後亀山天皇陵である」と伝えられていたというのが、現在治定されているこの五輪塔です。
『山城名跡巡行志』などの史料に同様の記述を見ることができます。


文久の修陵において。
この五輪塔の周囲に空掘が設けられ、方形区画に整備されました。
写真にある空掘は、文久の修陵の名残りだったのです。
なお、かつてはこの陵墓は西面する形で拝所が建てられていて、文久の修陵の際もこれにならっていましたが、いつのことか再度修陵を受けた際に現在の南面の拝所に改められています。


さて。
参道を引き返して。
↓先ほど見た道標を裏から見たもの。

…「昭和三年」は、干支でいえば「戊辰」。
そう、戊辰戦争からちょうど一回り60年ということで、やたらと維新がらみの顕彰碑が全国で建てられた年だった…と、かつて大学院のスクーリング時に教わった記憶があります。
それにつけても「皇陵巡拝会」が気になります。近いうちにガッツリ調べてみたいと思います。


★★またしばし続きます。人気blogランキング★★

*1:いつ頃廃絶したかは不明です。ただ、『文久山陵図』において、「荒蕪」「成功」図の双方に陵の背後に福田寺とおぼしき建物が描かれていることから、少なくとも文久年間までは存続していた…と見てよさそうです。