それでも陵墓マニアは帰ってくる(7)

…なんかこう、超大作になってしまった、嵯峨天皇編のつづきです。
前回のエントリはこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20100719#p1)。


前回のエントリでも触れたとおり。
嵯峨天皇は、崩御に際して、徹底的な薄葬を命じる遺詔を残しています。
かなり難しい文章で、かつ長文ですが、『続日本後紀』に掲載されている文章を全文引用してみたいと思います。

余昔不徳を以て久しく帝位を忝うす。夙夜兢々として黎庶を濟はんことを思ふ。然れども天下は聖人の大寳なり。豈但に愚戇*1微身の有ならんや。故に萬機の務を以て、賢明に委す。一林の風、素心愛する所。無位無號山水に詣りて逍遥し、無事無為琴書を翫び以て澹泊を思欲す。後太上皇帝陛下*2、言を古典に寄せ、我に尊號を強ふ。再三固辞するも、遂に免るることを獲ず。生前傷みと為す。歿後如何。茲に因って太上の葬礼を除去し、素懷の深願を遂げんと欲す。故に古事に因循し、別に之が制を為す。名づけて送終と曰ふ。夫れ存亡は天地の定數、物化の自然なり。終りを送るに意を以てする、豈世俗の累ならざらんや。余年弱冠にして、寒痾身を嬰す。服石變熱、頗る驗有るに似たり。常に恐る、夭傷期せず、禁口言ふ無し。是以て略々至志を陳ぶ。凡そ人の愛する所は生なり。傷む所は死なり。愛すと雖も期を延ぶるを得ず。傷むと雖も誰か能く遂に免れん。人の死するや、精亡び形銷ゆ。魂無きに之あらず。故に氣天に属し、體地に歸す。今生きて尭舜の徳有る能はず。死するに何を用ひて國家の費を重くせむ。故に桓司馬の石槨速やかに朽つるに如かず。楊王孫の嬴*3葬之を為すに忍びず。然れば則はち葬は藏なり。人の見るを得ざらむことを欲するなり。而して重ぬるに棺槨を以てし、繞らすに松炭を以てし、枯骨*4を千載に期し、久容を一壙に留む、已に歸眞の理に乖く、甚だ謂無きなり。流俗の至愚と雖も、必ず之を咲はむ。財を豊かにし葬を厚くするは、古賢の諱む所。漢魏二文、是吾の師なり。是を以て朝死夕葬夕死朝葬を欲す。棺を作ること厚からず、之を覆ふに席を以てし、約するに黒葛を以てし、床上に置き、衣衾飯唅*5、平生の物、一に皆之を絶て。復た歛むるに時服を以てす。皆故衣を用ゐ、更に裁制すること無かれ。纒束を加へず、著くるに牛角の帶を以てし、山北幽僻不毛の地を擇べ。葬限三日を過さず、卜筮を信ずること無かれ。俗事――謚誄飯含咒願忌魂歸日等の事を謂ふ――に拘ること無かれ。夜尅葬地に向ふべし。院中の人喪服を著て喪事に給すべし。天下吏民服を著ること得ざれ。而して今上*6に供事する者は、一七日の間、衰絰*7を服することを得。此を過ぎれば早く釋け――其の近臣臥内に出入する者を擇びて、應に素服を着むべし。餘くこと亦た此に准ず――。一切哀臨すべからず。挽を柩く者十二人、燭を秉る者十二人、並に衣麁布を以てす。從者廿人――院中近習者を謂ふ――に過ぎざれ。男息は此の限りに在らず。婦女は一に停止に從へ。坑を穿つこと淺深縱横、棺を容るべし。棺既に下し了らば、封かず樹えず。土と地と平に、草を上に生ぜしめ、長く祭祀を絶て。但し子中の長者*8、私に守冢を置き。三年の後之を停めよ。又資財無しと雖ども、少しく琴書有り。處分具さに子戒を遺す。又釋家の論、絶えて棄つべからず。是故に三七、七七、各々麁布一百段、周忌二百段、斯を以て寺に追福せしめよ――佛布施絁*9細綿十屯、裹むに生絹を以てし、素机上に置くべし――。一切國忌に配すべからず。忌日に至る毎に、今上別に人信を一寺に遣はし、聊か誦經を修せよ――布綿の數上齋に同じ――。一身を終へて即ち休めよ。他兒は此に效はざれ。後世の論者若し此に從はずば、是屍を地下に戮る、死して重ねて魂を傷ましむ。而して靈有らば、則ち寃に冥途に悲しみ、長く怨鬼と為らむ。忠臣孝子、善く君父の志を述べ、我が情に違ふべからざるのみ。他に此の制中に在らざる者、皆此の制を以て、類を以て事に從へ。

…『続日本後紀』。
実は、まだ注釈本が市場に出回っていません。
読み下し文の原典も…そうですね、昭和戦前に刊行されたものがあるらしいとしか聞いていません。
大学図書館とかにはあるのかもしれませんが。


というわけで。
ここに引用した文章は、ネット上に落ちていた漢文のままの本文を、例の『山陵』(上野竹次郎:名著出版)に掲載されていた遺詔を参考にしながら自分が読み下し文にしたものです。
句読点の切れ目とか明らかにおかしい部分は一部自分の責任において修正しましたが、まだまだ不完全な部分がある可能性も抱合されたものである…という前提でお読みください。


…原文じゃ何のことか分かりませんよね。
ええ、現役日本史学専攻院生にして、大学では国文学を学んでいた自分ですら、全体の意味を正確にキャッチすることは難しい状態です(苦笑)。


平安京閑話」でおなじみの山田邦和教授が。
『歴史検証 天皇陵』(新人物往来社)のなかで「淳和天皇陵と嵯峨天皇陵」という論文を執筆されているのですが。
歴史検証天皇陵 (別冊歴史読本 (78))
その論文中に、教授が一部抜粋したうえで遺詔の大意を掲載されているので。
以下に引用させていただきたいと思います。

人が死ねば精は亡び、形は消え去り、魂も無くなり、気は天にのぼり、体は地に帰る。そもそも「葬」とは「蔵(隠す)」ということであり、人が見ないことを欲するものである。したがって、棺槨を重ね、松炭を充填して枯骨を後の世まで残すのは本来の理に背いている。厚葬はいにしえの賢人も諌めているところであり、自分は漢・魏のふたりの文帝を模範だと思っている。私の葬儀は薄葬とせよ。山陵は、山北幽僻不毛の地を選び、墓坑を浅く掘り、その大きさは棺を入れるに足りるだけにせよ。墓坑の上には、墳丘を造らず、樹木を植えず、地面を平らにして草が生えるにまかせ、永く祭祀を絶て。ただし自分の皇子の中の年長者(仁明天皇)だけは私的に陵守を置いてもよいが、それも三年すれば停止せよ。三七日や七七日には寺院で追福をおこなうだけにして、国忌とはすべきではない。仁明天皇は忌日には毎年人を寺に遣わして誦経させてもよいが、それも天皇の一代の間だけにせよ。他の皇子はこのようなことをしてはならない。もし後世の人がこれに違反すれば、自分の魂は傷つき、さらには怨鬼となってしまうであろう。忠臣・孝子はよくこの志を理解し、私の命に背いてはならない。

…初めからこちらのほうを引用しおけばよかった(笑)。
遺詔原文は難解ですが、大意は山田教授が紹介されているとおりです。


徹底的なまでに、繰り返し薄葬を命じていることがお分かりいただけるかと思います。
極めつけは「長く怨鬼と為らむ」の部分。「言うこと聞かなきゃバケて出るぞ!」と言ってるようなもんです(笑)。
これには伏線がありまして…。2年前に崩御した淳和上皇が「自分の死後遺骨は砕いて山中にまけ」と遺詔を残したのですが*10、廷臣が「天皇の散骨は例がない」として反対して遺詔が無視されそうになったという出来事がありました。このとき、淳和上皇の周囲の人物が「あくまで遺詔を守るべし」として朝廷の決定に反対し、結果的に上皇は遺詔のとおり火葬・散骨されるに至ったのですが、兄である嵯峨上皇はこの一連の出来事を念頭に置いて、実に綿密、かつ長文の遺詔を残すに至ったのではないかと考えられるのです(前述の山田邦和教授の論文より)。しかし…「バケて出るぞ!」はいくらなんでも行き過ぎなのでは(笑)。


かくして。
嵯峨上皇は。
崩御の翌日、遺詔に違うことなく「山北幽僻の地」に埋葬されたといいます。


嵯峨天皇陵は。
薄葬によって葬られたことの影響か。
江戸時代には、諸説入り乱れてはっきりしない状態になってしまいました。


曰く「二尊院の境内にある3つの石塔が、嵯峨天皇土御門天皇後嵯峨天皇の塔なのだ」とか。
曰く「清涼寺にある石塔が、嵯峨天皇と檀林皇后の塔なのだ」とか。
『文化山陵図』に掲載されている嵯峨天皇陵は、清涼寺説によるものです。
また、『雍州府志』においては、清涼寺説と併記して、現在後宇多天皇蓮華峯寺陵に治定されている八角堂説も紹介されています。


しかし。
これらは、いずれも後世の言い伝えによるもので、到底根拠のあるものではありません。
『山陵』では「杜撰言フニ足ラズ」とバッサリ斬り捨てています。


現在の治定陵を嵯峨天皇陵であると初めて提唱したのは。
『山陵志』で名高い蒲生君平です。
なるほど、この地は嵯峨天皇が生涯を終えた嵯峨院(現在の大覚寺の辺りといいます)から見て「山北幽僻の地」に当たります。『続日本後紀』の内容とも一応一致は見るところです。


現陵のある辺りは、江戸時代には「ゴボウ山」「ゴンボ山」と呼ばれていたらしいのですが、これらは「御廟山」が転化したものであると考えられます。
その「ゴボウ山」の山頂近くに、7つほどの巨岩が存在していたとのことです。
これらの巨岩は、『山陵志』で蒲生君平がこの辺りを嵯峨天皇陵であると提唱して以来「嵯峨天皇御陵岩」と呼ばれるようになったようで、『聖蹟図志』や『大覚寺伽藍図』などにその姿が描かれているのを確認することができます。


文久の山陵修復」の際。
文久3年(1863年)10月、この陵墓周辺も改修を受けました。
文久山陵図』を見ると、「嵯峨天皇御陵岩」の周囲に柵と石垣が巡らされ、南面して拝所が新設されるとともに、参道も増補されている様子が覗えます。
現在伝わる、直径約38mになろうという円丘の嵯峨天皇陵は、このときの改修によるものです。
ちなみに…『文久山陵図』に描かれている「成功」図には「嵯峨天皇御陵岩」も変わらず描かれていましたが、現在もこれらの岩が嵯峨天皇陵の墳丘に存在しているかは不明です。後の修復で除去された可能性も少なくないところです。「Google Earth」で確認してみたのですが…よく分かりませんでした。


この嵯峨天皇陵が真陵である可能性については。
山田邦和教授が「(「嵯峨天皇御陵岩」は)どう見ても人工的に置かれたものではなく、自然の露岩にしかみえない。したがって、ここが嵯峨天皇の真陵かどうかはまったく確証を欠いているといわざるをえないのである。もっとも、嵯峨天皇はその御所である嵯峨院の北方の山上に葬られたことは確かであるから、現陵を含む山丘のどこかに山陵が所在していたことはいうことができるであろう」(前述「淳和天皇陵と嵯峨天皇陵」より)と述べられているとおりであると思います。
今となっては、真に天皇が葬られた場所を特定することは、雲を掴むようなものであると言わざるをえません。
現陵の付近であることだけは間違いないようですが…。


でも。
嵯峨天皇陵から見渡す嵯峨野の風景を思い返すと。
ここが嵯峨天皇陵であってもいいような気がしてなりませんでした。
天皇が愛したであろう嵯峨野をぐるりと一望できる陵墓、ピッタリだなあ…って。


★★まだ5月の現地調査レポート、終わってないんですよね…。人気blogランキング★★

*1:環境依存文字。Unicord:6207「志−士+(務−矛+章−力+貢)」。「トウ」ないし「コウ」と読みます。「愚か」という意味です。

*2:淳和上皇のこと。上皇は兄である嵯峨上皇に先立つこと2年2か月、承和7年(840年)5月8日に崩御しています。

*3:環境依存文字。「エイ」と読みます。

*4:この1字不明でした。注釈書や参考文献などから大意として「骨」を補いましたが、別の漢字であった可能性も大です。

*5:環境依存文字。「口+含」。『山陵』では「含」という字が使用されていましたが、誤植である可能性もあります。

*6:仁明天皇

*7:環境依存文字。「糸+至」。

*8:上皇の皇子のうちの最年長の者」なので、これも仁明天皇に当たります。

*9:環境依存文字。「施−方+糸」。「あしぎぬ」のこと。詳しくはこちら(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AC)をご参照ください。

*10:詳しくはこちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20060508#p3)をご覧ください。