それでも陵墓マニアは帰ってくる(8)

…さて。
5月に実施した現地調査のレポートは、今回の分で最後です。
長かった…。


嵯峨天皇陵のモーレツな山登りでダメージを受け。
さらに、拭いても拭いても流れ出てくる汗を拭おうと思ったら…どこかでハンカチを落としてしまったらしく、ショボーンとしてしまったので。
諦めて、おとなしく家路に就くことにしました。


帰路。
もう1か所だけ、どこか寄れるところに寄ろうと携帯で探しまわってみたところ。
福王寺交差点の近くに円融天皇陵があることが判明しました。
早速、行ってみることに。


↓住宅地の中に、忽然と姿を見せました。


円融天皇後村上陵です。


↓「円融天皇後村上陵」の石碑。

例によって、灯籠には「後村上陵前」の文字が入れられているのを確認することができます。


円融天皇は。
譲位後の正暦2年(991)年2月12日、円融寺において崩御し。
7日後の19日に寺の北原において火葬に付され、村上天皇村上陵の傍に遺骨が納められた…と史料に見ることができます。


が。
円融天皇陵もまた。
多くの陵墓がそうであったように、江戸時代にはその所在地が不明となってしまいました。
村上天皇村上陵の傍に」と史料にあると書きましたが、その村上天皇陵自体が所在不明となってしまったので、併せて円融天皇陵も不明となってしまったのでしょう。
文久の山陵修復」の際にも所在不明であったと見えて、谷森善臣の『山陵考』の中でも「今その処の知られざるハいとも畏こきことなりけり」とまるで手も足も出ない状態であったことが覗えます。


現在の陵墓は。
明治22年(1889年)になって、村上天皇陵とともに現所在地に治定を見た後、修復を加えられたものです。
この場所が適切なものであるかというと…正直何とも言えないところのようです。村上天皇の現治定陵自体に異論を挟む学者も少なくないようで、そうなると円融天皇の現治定陵の真贋もまた揺れてくるところのようで…。


さて。
円融天皇陵の北方100mちょっとのところに、「村上天皇村上陵参道」という標柱を見つけることができたのですが。
何かこう、嵯峨天皇陵のときに感じたような山登りのイヤーな予感がしてならなかったので*1
今回は諦めて撤収し、他日を期すことにしました。
気力・体力ともに横溢した時期にまた来ようかと…。


15時、京都より神奈川へ移動開始。
ヴィクトリアマイルブエナビスタが勝利を収めたのを車載TVで見たのは、渋滞にハマった五条大橋でのことでした。


★★ようやっと終わってくれました。今度は7月の現地研修レポートです。人気blogランキング★★

*1:後にこの予感はビンゴだったことが判明。