遂にこういう日が来た…。

「牽牛子塚古墳:斉明天皇陵と特定 八角構造が判明/奈良」(http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100910k0000m040050000c.html

奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(7世紀後半)で、墳丘を八角形に囲む凝灰岩の石敷きが発掘され、八角形墳と確認された。9日発表した村教委によると、石造埋葬施設の周りに巨大な切り石を立て並べ、墳丘表面も石で覆った特異な石造の古墳とみられる。八角形の墳丘は飛鳥時代天皇陵の特徴で、天智、天武両天皇の母で、大規模土木工事を好んだとされる斉明天皇が被葬者であることが確定的となった。
牽牛子塚古墳は、巨大な凝灰岩をくりぬいた埋葬施設の横口式石槨(せっかく)が露出し、過去の調査で貴人に用いるひつぎ「夾紵棺(きょうちょかん)」などが出土していたが、墳丘の構造は未確認だった。
墳丘のすその発掘で幅約1メートル、深さ約20センチの溝の中に凝灰岩の切り石(長辺約40〜60センチ、短辺約30〜40センチ、厚さ約30センチ)を敷き並べているのが見つかった。石敷きは9メートルの1辺と、135度の角度でつながる左右2辺の一部が確認され、墳丘を八角形に囲んでいることが分かった。八角形の対辺の長さは22メートルで、石敷きの外側の小石が敷かれた部分を含めると対辺32メートル以上。石敷きからの高さは4.5メートル以上とみられ、墳丘斜面にも凝灰岩の切り石を並べた跡があった。
また、石槨に沿って縦2.7メートル、横1.2メートル、厚さ70センチ、重さ5トンの直方体の切り石(石英安山岩)が3個見つかった。村教委は石槨を16個の巨大な切り石が壁のように囲んでいたとみている。石槨は東西5メートル、南北3.5メートル、高さ2.5メートル、重さ約70トンの1個の巨石だと判明した。
日本書紀によると、斉明天皇は661年に死去。667年までに娘の間人皇女(はしひとのひめみこ)と合葬された。また続日本紀は、陵が699年に修造されたと伝えている。
野口王墓古墳(天武・持統天皇合葬陵)や文武天皇の墓とされる中尾山古墳など7世紀の天皇陵は、いずれも八角形とみられ、牽牛子塚が天皇陵であることは確実。間仕切りをして2室にした石槨の構造、間人皇女と同年代の女性とみられる歯などの出土品と合わせ、斉明陵が、宮内庁が指定する奈良県高取町の車木ケンノウ古墳ではなく、牽牛子塚古墳だとほぼ確定した。
現地見学会は11、12日午前10時〜午後4時、近鉄飛鳥駅から徒歩約15分。【高島博之】
◇皇極・斉明天皇(594〜661)
名は宝(たから)。舒明(じょめい)天皇の皇后として、中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人皇子天武天皇)らを産む。642年、舒明没後に即位(皇極天皇)。645年、大化の改新蘇我入鹿(そがの・いるか)らが滅ぼされると、弟(孝徳天皇)に譲位したが、その死後の655年、再び皇位に就く(斉明天皇)。これが日本史上初の譲位であり、初の重祚(ちょうそ=2度の即位)だった。朝鮮半島百済救援のため福岡へ赴いて同地で没し、皇位は天智に引き継がれた。


(写真:牽牛子塚古墳のすその部分から発見された八角形の石敷きの一部。奥は石室がある墳丘=奈良県明日香村で2010年8月25日、貝塚太一撮影)

「牽牛子塚古墳:権威誇示 重量550トン、堅固な石の宮殿」(http://mainichi.jp/select/wadai/news/20100910k0000m040072000c.html

牽牛子塚(けんごしづか)古墳(奈良県明日香村、7世紀後半)が八角形墳であることが分かり、斉明天皇(594〜661年)が葬られたことが確定的となった。激動の7世紀、2度にわたって即位した女帝は、なぜ巨大な切り石を使って堅固に築かれた「石の宮殿」に葬られたのだろうか。
発掘調査した村教委によると、古墳に使われた石は総重量550トンに及び、最も大きな石は埋葬施設の横口式石槨(せっかく)の約70トン。切り石の組み合わせではなく、推定約80トンの1個の凝灰岩をくりぬいて造られた。約15キロ離れた奈良・大阪府県境の二上山西麓(せいろく)から木製の大型そり「修羅(しゅら)」で運ばれたらしい。
地面を引きずるには約1400人、ころ(丸太)を敷いても数百人の力が必要だ。一瀬和夫・京都橘大教授(考古学)は「巨石を大勢で長い距離を引いていくことに、権力の大きさを見せる意味があった」と指摘する。
石槨を壁のように取り囲む16個の石英安山岩の巨石(1個約5トン)と、八角形の墳丘のすそに敷き詰められた凝灰岩も二上山西麓から運ばれた。奥田尚・奈良県橿原考古学研究所共同研究員は「これだけの加工石を使った古墳は見たことがない。古墳自体が大きな石造物だ」と驚く。
6世紀までの大王陵は前方後円墳や方墳だったが、7世紀に即位した天皇からは、天皇陵だけが八角形となり、他の豪族と差別化された。千田稔・県立図書情報館長(歴史地理学)は「八角形は道教で全世界を意味する。死んでも支配者であることを形に込めている。大量の石で装飾し、仰ぎ見る人への視覚効果を狙ったのだろう」と言う。牽牛子はアサガオの意味で、その形から呼ばれるようになったとみられる。
斉明天皇を牽牛子塚に葬ったのは、子の天智、天武、孫の持統、さらにその孫の文武天皇のうちの誰か。和田萃・京都教育大名誉教授(古代史)は「日本書紀に、天智は斉明の命令を守って大工事をしなかったと書かれており、これほど大がかりな墓を造ったとは考えられない」とする。
今尾文昭・奈良県橿原考古学研究所総括研究員(考古学)は、斉明陵が「修造」されたと続日本紀に記されている文武3(699)年に斉明が牽牛子塚に改葬されたとみる。白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)も「天皇の権威を高め、天皇を中心とする国家体制を維持する目的で立派なものに造り替えた」とみている。【高島博之】
◇斉明陵の見直し、宮内庁「不必要」 別遺跡を指定
宮内庁は、奈良県高取町の車木ケンノウ古墳斉明天皇陵として管理する。書陵部の福尾正彦・陵墓調査官は「斉明陵の見直しは必要ない。文献には大きな工事をしなかったとあり、必ずしも一致しない。被葬者を示す墓誌など確実なものが見つかるなどしなければ見直す状況にはならない」と話す。
天皇陵をめぐり、考古学界の通説と、宮内庁の陵墓指定地が異なる所は他にもある。学界では発掘調査の結果、陵墓に指定されていない中尾山古墳(奈良県明日香村)を真の文武天皇陵、今城塚古墳(大阪府高槻市)を真の継体天皇陵とする説が圧倒的だが、指定見直し論議は起きていない。


(写真:80トンの巨石をくりぬいて造られた石槨の内部=奈良県明日香村で2010年8月25日、貝塚太一撮影)

…言っては何なんですが。
天皇陵の研究者たちにとって「真の継体天皇陵は今城塚古墳」「真の文武天皇陵は中尾山古墳」というのは半ば共通認識になっています。
欽明天皇陵だって「真の欽明天皇陵は見瀬丸山古墳」という説が有力です。
こういう「宮内庁の治定陵と違う古墳が真陵である可能性が高い」という発掘結果が出ることは、いつ起こってもおかしくないことでした。


それにしても…「現治定陵でない古墳が真陵である」と最初に報じられたのは斉明天皇陵でしたか。
八角形墳である可能性が高いことから牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵として有力視されてはいましたが、小谷古墳(奈良県橿原市)を推す学説もあり*1、意見は割れていました。
いずれにしても、現治定陵である車木ケンノウ古墳が真陵である可能性が低いというのは学会の大勢でしたが…。


宮内庁は、やはり治定替えは考えていないようですね。
墓誌が出土することは…ほぼないと考えていいと思うんですよね。古代の日本に「古墳に埋葬する際に墓誌をともに収める」といった習慣はなかったと考えていいはずですし。
墓誌が収められるようになったのは…「7世紀をさかのぼることはないようです」とのこと(http://www.city.fujiidera.osaka.jp/9,1114,98,148.html)。太安万侶の墓が発見されたときに墓誌が見つかったようなケースを古墳群に求めるのは厳しいと言わざるをえません。
あとは…明治13年1880年)6月13日に京都・栂尾の高山寺で『阿不幾乃山陵記』が発見されたことにより、それまで見瀬丸山古墳に治定されていた天武・持統合葬陵が野口王墓古墳に治定替えになったように、決定的な文献史料が発見でもされない限り、宮内庁が重い腰を上げることはないと見ていいようです。
そのことに対しての論議は、ここでは深入りは避けますが…。


俄然、自分の研究にも熱が入ってきそうです。
ちょうど折も折、明日から大学院の中間発表会で京都に出掛けるので*2、じっくりともろもろ見つめ直したいと思っています。


★★そういえば…現地調査のレポートたまりまくり。人気blogランキング★★

*1:横穴式石室内部の石棺の形態から合計3体の埋葬が考えられ、『日本書紀』に見られるように「斉明天皇、間人皇女、建王の3人を葬った三骨一廟形式の陵墓である」と見ることができるのがその根拠です。

*2:休学中でも参加してよいとのこと。