それでも陵墓マニアは帰ってくる(14)

つづきです。
前回のエントリは、こちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20101005#p1)。


今回から。
現地調査2日目、7月23日のお話になります。
この日も暑い暑い1日でした。


この日は。
1日かけて、奈良県の陵墓を調査する予定でした。
奈良県南部、明日香村周辺を中心に。
車の移動でないと、なかなかフットワークよく次から次へと訪ね回ることはできないと思われるので、またとないチャンスです。


ホテルを出発し。
堀川通りから竹田街道に入ると、昨日と同様に一気に南下。
伏見を過ぎても、ひたすら南進。
奈良市街もスルーし、ただただ明日香を目指しました。
…しかし遠かったですよ。8時ちょっと前に京都を出たのに、最初の目的地に到着した頃には時計は11時を回ってました。


最初の目的地は。
天武天皇持統天皇が合葬されている、檜隈大内陵です。


↓駐車場から。

殺虫剤散布してました。


↓陵の説明板。


↓石段を上がると。

↓拝所がありました。

↓制札です。

↓陵前景。

↓「天武天皇持統天皇檜隈大内陵」の石碑。

八角墳であることを確認しようと回り込んでみたのですが…よく分かりませんでした。


この天武・持統合葬陵は。
現在治定されている陵墓のなかでは珍しく「治定に間違いのない真陵である可能性が限りなく高い」と考えられています。
これについて、解説します。


現在、天武・持統合葬陵に治定されているこの古墳。
古墳としての固有名は「野口王墓古墳」といいます。


天武・持統合葬陵の所在地は。
他の天皇陵同様に、中世の混乱期を経て正確な伝承が失われた状態となってしまっていました。
もちろん、大和・飛鳥地方には口伝による伝承は――様々な形で――残っていたと想像できますが、少なくとも文献上においては見ることができなくなってしまっていたといってよいでしょう。


その天武・持統天皇合葬陵が、再び公式の記録として世に残された事実として。
柳澤一宏さんは、元禄10年(1697年)、南都奉行所が野口村の庄屋・年寄らに不分明陵の調査・報告を命じた際、「武烈天皇陵」として覚書が提出された野口王墓古墳(覚書中の表記は「字皇ノ墓」)について、京都所司代「村人ハ武烈天皇ノ御陵ト申伝候得共 武烈天皇ノ御陵ハ葛下郡片岡山ニ御座候由此御陵山天武持統合葬ノ御陵山ニテモ可有御座哉 此外檜隈ト申所ニ天武持統之御陵ト申所無御座候 大内ト申所ハ相知レ不申候」と報告し、初めて「野口王墓古墳を天武・持統天皇合葬陵である」と明確な形で記録を残しているという点。
そして、それを受けて、翌年の元禄11年(1698年)に南都奉行所が正式に野口王墓古墳を天武・持統天皇合葬陵に比定したという点を指摘しています(『「天皇陵」総覧』(新人物往来社)「天武・持統天皇陵」より)。
そのためか、いわゆる「元禄の修陵」においても、野口王墓古墳は天武・持統天皇合葬陵であるとされています。外池昇さんは、「元禄の修陵」の際に著された『御陵所考』(元禄12年(1699年))において、野口王墓古墳について、天武・持統合葬陵として「掘崩す。高四間、根廻九十五間、垣廻五十八間、門口五尺四方、石棺粉砕あり」と記されている事実を紹介しています(『天皇陵の近代史』(吉川弘文館)より)。


ところが。
享保19年(1734年)に著された『大和志』のなかでは。
天武・持統天皇合葬陵には別の古墳が比定されています。
見瀬丸山古墳がそれです*1


そして。
文化5年(1808年)に蒲生君平によって著された『山陵志』においても。
さらに、嘉永元年(1848年)に北浦定政が著した『打墨縄』、安政元年(1854年)に平塚瓢斎が著した『聖蹟図志』においても。
いずれも「天武・持統天皇合葬陵=見瀬丸山古墳説」が採られています。


理由はなぜか。
『大和志』にある「双石棺ありと云々」という記述が全てであろうと思われます。


天武・持統天皇陵が「合葬陵」であるということは、江戸時代においても『続日本紀』『延喜式』の記述によって広く知られていたところでした。
また、見瀬丸山古墳の横穴式石室の内部に石棺が2つ存在することは、平成3年(1991年)にたまたま開口部分から石室内に入った一市民によって撮影された写真が公開されたことによって現代においても改めて広く知られるところとなりましたが、『大和志』の記述を見る限り、江戸時代においても「見瀬丸山古墳の石室内部には、誰もが比較的容易に出入りできるようになっていた」状態であって、かつ「見瀬丸山古墳に石室が2つ存在することは江戸時代から広く知られていた」事実が推察できます。


この2つが結びついて。
「天武・持統天皇合葬陵=見瀬丸山古墳説」が当時の多くの研究者によって広く信じられることになったのではないかと考えられます。


しかし。
同時に、ここに江戸時代当時の多くの研究者がはまってしまった陥穽があります。


見瀬丸山古墳には「2つの石室が存在した」ということは周知の事実なのですが。
よく知られているように、持統天皇は、崩御から約1年後の大宝3年(703年)12月17日、飛鳥岡において火葬に付されたと『続日本紀』に記事が掲載されています。
この「持統天皇は火葬に付されている」という事実と照らし合わせたとき、「2つの石室が存在する見瀬丸山古墳は、火葬された持統天皇の陵墓としては適切ではない」ことは容易に判断がつくはずです。
もちろん、『続日本紀』の記述がどれたけ当時の学者たちに知れ渡っていたかは計り知れないですし、当時の学者たちは当時なりに考えうる最大限の叡智をもって比定をしようとしていたということまでは全否定はできないところではあります。あくまで「後の世の我々から見るとイージーな事実なんだけど…」というレヴェルで考えるべきなのでしょう。


ただ。
幕末期に、ここに目をつけた研究者も存在しました。
このシリーズではおなじみになりつつあるかもしれない、谷森善臣です。


彼は慶応3年(1867年)に著した『山陵考』のなかで。
天武・持統天皇合葬陵である「檜隈大内陵」について、次のように語っています。

大和国高市郡野口村にあり、字を王の墓山とよふ一堆の岡山のうへに円く築立たる御陵なり。(中略)また一説に、五條野村大軽村三瀬村三箇村の間に字を丸山とよへるいと大なる古墳をそれなりともいへり。(中略)其石室内に石棺二つありとぞ。(中略)さて今上に挙たるふたつの古墳をつらへ考合するに、丸山のかたは石棺ふたつあるに依て御合葬の墳墓なることハ明なれど、当昔数多ありて、同しこの五条野村領の内にも、字を菖蒲池とよぶ処に石室ハ半毀たれど石棺二つ双在る南面の荒墳あり。又上に引出たる明月記の文によるに、女帝*2の御骨ハ銀の筥に収蔵てありし趣にて、石棺に蔵めてありしこと聞えざれば、二棺ある依てかならす大内陵の證とはなりがたかるへし

引用文中にある「明月記」とは、チョー有名な藤原定家の日記ですが。
そのなかの嘉禎元年(1235年)六月六日条に「天武天皇大内山陵が盗掘を受け、持統天皇の銀製の骨壺が盗まれて遺骨(遺灰?)が路上に撒かれた」という記事が掲載されています。
谷森はそれを受けて「2つの石棺が収められているということは、見瀬丸山古墳は天武・持統天皇合葬陵としてはふさわしくない」ということを主張したのです。
当時としては、なかなかの卓見だったと言っていいでしょう。


しかし。
この谷森の主張がなされた後も。
見瀬丸山古墳を天武・持統天皇合葬陵と比定する考えは覆りませんでした。
明治新政府も、従来の説を踏襲し、引き続き見瀬丸山古墳を天武・持統天皇合葬陵として管理を続けていきました。


一方。
野口王墓古墳については。
前述の『打墨縄』においては「文武天皇陵である」と考えていたりして。
文久の修陵の際には文武陵として仮補修を受けたりもしたようです。



そんな天武・持統合葬陵の治定問題が。
一転ひっくり返るような出来事が起こりました。


明治13年1880年)6月13日。
京都・栂尾の高山寺で、『阿不幾乃山陵記』と題された書物が田中敬忠によって発見されました。
この『阿不幾乃山陵記』のなかで、『明月記』同様に、嘉禎元年(1235年)に天武・持統天皇合葬陵が盗掘を受けたときのことが詳しく述べられていました。
石室の内部に、天武天皇のものと考えられる朱塗りの棺があり、内部に少し大きめの人骨が納められていたこと、そして、1斗ほど入る金剛桶が床の上に据えられ、鎖が残されていたことが記されています。
その記述が、先にも触れた『明月記』中における持統天皇の銀製の骨壺が盗まれて遺骨が路上に撒かれたという記事と完全に合致していること、そして何より、冒頭に「里号野口」という文言が残されていたことから、「天武・持統合葬陵は野口王墓古墳こそが真陵である」ことを証拠付ける決定的な文献史料となったのです。


これを受け。
明治14年1881年)2月1日付で、天武・持統合葬陵は野口王墓古墳に改定されました。
このとき、それまで野口王墓古墳が治定されていた文武天皇陵も、粟原塚穴古墳に改定されています。


最近の牽牛子塚古墳についての議論の際に、宮内庁が「墓誌などの決定的な証拠となる史料が発見されない限り治定替えはない」との方針を出して論議を呼びましたが。
天武・持統合葬陵については、これだけ大きな論拠となる文献史料が発見されたので、治定替えもスムースに運んだのかもしれません。
逆に言うと…牽牛子塚古墳も、今後『阿不幾乃山陵記』クラスの決定的史料が発見されれば、斉明天皇陵として治定替えを受ける可能性がなきにしも…ということなのかもしれませんが。


※今回のエントリを執筆するに当たって、2007年に大学院に提出した考古学特殊研究のレポート本文から一部転載させていただきました。なお、転載に当たっては、内容を一部改訂してあります。


この現治定陵が真陵であることは揺らぎはないんでしょうが。
盗掘を受けて、持統天皇の遺骨って路上にばら撒かれたんですよね。
…拾い集めて再び陵内に納められたんでしょうかね。それとも…そのまま?
ちょっと複雑な思いを抱きつつ、天武・持統合葬陵を後にしました。


★★次回、ちょっと番外編。人気blogランキング★★

*1:見瀬丸山古墳については、懐かしのこのエントリ(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20050623#p1)もご参照ください。

*2:持統天皇