それでも陵墓マニアは帰ってくる(16)

つづきです。
前回のエントリは、こちら(http://d.hatena.ne.jp/CasparBartholin/20101020#p1)。


引き続き、欽明天皇檜隈坂合陵についてです。


欽明天皇陵は、現治定陵の平田梅山古墳で間違いないのだ」という反論の論拠として。
谷森善臣が『山陵考』のなかで著した記事が紹介されることがあります。


引用したほうが早そうなので。
ここで、当該部分を掲載させていただきます。

四周に堀あり。(中略)南方にハ堀二重にありにしや、堤跡――今ハ畑となりて字をツクエといふ――の外南に字を池田とよひて又低くなれる田あり。これ外堀の跡埋まりて田となれりしものなり。元禄十五年十月五日にこの池田より石像四軀*1を掘たり。その面貌形体まことに異様にて尋常ならす。一石に二面或ハ三面あり。面別(コト)にその容貌を別にし或ハ男或ハ女、ともに裸体にてミな陰処をあらはし哭がことく笑ふがことくその顔貌状(イ)ふへからす。もと何の為に作れるものなること知られされども、実にこの御陵を作りしその昔より在来れるものとミえていと古代なるものなり。此石人のこと既(ハヤ)く今昔物語集に、(中略)此(引用者注:これ。「此」の右下に小さく「レ」とあり)、元明天皇――今按に元明とハ欽明の誤なり元明の御陵ハ奈保山にて檜隈にあらす――ノ檜隈(ヒノクマ)ノ陵也。石(引用者注:いしの。「石」の右下に小さく「ノ」とあり)鬼形共(引用者注:どもを。「共」の右下に小さく「ヲ」とあり)、廻ノ池ノホトリ、陵(ミサヽキ)ノ基様(モトサマ)ニ立テ、微妙(メテタ)ク造レル石ナト、外ニハ勝(スク)レタリといへる。石ノ鬼形はこの石人石獣のことを大よそに見てかく鬼形とハいへりしなるへし。池辺(引用者注:いけのほとり。「池」の右下に小さく「ノ」、「辺」の右下に小さく「リ」とあり)陵の基様ニ立テといへると池田より掘出たるとに依て思ふに、古の中堤のあと今机(ツクエ)とよふ畑の辺に立たりしを、いかにしてか其外堀今池田とよへる池の中へ落込たりしまゝ埋りたるを、元禄に掘当りて取出たりしものにぞあるへき。
(注:カタカナのルビは原注)

…ここでポイントとなるのは。
本文中で紹介されている「石人」の存在です。
以下整理します。












【執筆中。後日追加します】


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*1:環境依存文字。「身+區」。