明け。

毎年元日は1日が慌ただしく過ぎていきますね。
今年は豆台風がいるもんだからなおさら*1


…というわけで、改めまして、今年もよろしくお願い申し上げます。
年を経るごとにますます過酷な状況の中でタスクをツブしていくことを余儀なくされている自分ですが、とりあえず「日本史系よもやまブログ」として、少しは日本史ネタも紹介していかなくては…と決意を新たにした次第です。
とりあえず…昨年夏の現地調査のレポートのつづきから。季節真逆になっちゃいましたけど(苦笑)。オーストラリアのクリスマスかよ。


では。
早速1つ、日本史系小ネタを。


本日の表題「持統天皇即位(持統天皇4年・690年)」に関していってみたいと思います。
「…即位したのに『持統天皇4年』って何?」と疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれないので。


朱鳥元年(686年)9月9日に天武天皇崩御した後。
皇后であった鸕野讃良皇女*2が正式に即位することなく事実上の天皇として政務を取る、いわゆる「称制」という状態となりました。


皇太子には皇后の子である草壁皇子が立てられていましたが、才気煥発だった異母弟の大津皇子にも衆目が集まっていて、次の皇位の行方はにわかに混沌としたものになっていた――と見る向きもあります。
そして、皇后が「称制」したのは、それらの動きを牽制するためのものであった…と見るのが一般的な見方となっています*3


天皇崩後1か月も経たないうちに。
10月2日、大津皇子が「謀反の疑いあり」として捕えられます。
そして、翌3日、彼は訳語田の邸宅で「賜死」、つまり「自ら命を絶つ」ことを命じられました。


大津皇子が本当に皇位に野心があったのか。
あるいは、彼の才能を恐れた皇后サイドのでっち上げだったのか。
真相は藪の中です。
ただ…「謀反の疑いあり」となってからすぐ、皇后が迅速に対応して息子のライヴァルを葬り去ったことだけは事実のようです。


しかし。
皇后も、皇太子の草壁皇子も、その後すぐには皇位には就きませんでした。
これを「大津皇子粛清に対する反発があったため、すぐに皇位に就くことができなかった」とする見方もありますが、それが全てではないにせよ、理由の1つであったとしても不自然ではないと思われます。


そうこうしているうちに。
病身であったとも言われている草壁皇子は、皇位に就くことなく、持統天皇3年(689年)4月13日に薨じてしまいます。
草壁の子である珂瑠皇子(後の文武天皇)は当時7歳、いずれ成長した後に皇位を継承するつもりにせよ、すぐに位に就けることはとても不可能な状態でした。


かくして。
孫である珂瑠皇子が成長するまでの中継ぎとして。
持統天皇4年(690年)1月1日、皇后は自らが皇位に就きました。
持統天皇」誕生の瞬間でした。


…「称制」を始めた年の翌年(687年)から「持統天皇元年」とカウントを始めているため。
正式に即位した年とのラグが生じてしまっているのですね。
これは、母帝斉明天皇が崩じた後に同じく皇位に就くことなく「称制」した天智天皇中大兄皇子)の場合も同様です*4


★★今年は…どれだけ日本史ネタをお届けできることやら。人気blogランキング★★

*1:去年は赤ちゃんだったので、寝ている時間のほうが長くてさほどたいへんじゃなかったんですけどね。

*2:「鸕野讃良皇女」の「鸕」は環境依存文字。【盧+鳥】です。

*3:もっとも…天武天皇が崩ずる2か月前の7月15日に「天下の事、大小を問わず、悉に皇后及び皇太子に啓せ」という勅が出たという記事が『日本書紀』に見えますので、「皇后−草壁ライン」が天武天皇崩後に政務を取るのは既定路線であった…と見ることもできるのかもしれません。

*4:中大兄皇子が称制を始めたのは、母帝が崩御した斉明天皇7年(661年)7月24日からで、翌年の西暦662年が「天智天皇元年」に当たります。彼が正式に即位したのは、天智天皇7年(668年)1月3日のことでした。