「鬼千匹」ではなかったと思うのですが…。
というわけで。
昨日予告した、難波小野王についてのネタです。
…とはいっても。
そんなに艶っぽい話ではないんですよ(笑)。
難波小野王は。
昨日のエントリでも紹介したように、顕宗天皇の皇后だった女性です。
出自については、『日本書紀』では「磐城皇子(雄略天皇の皇子)の子である丘稚子王の子」、『古事記』では「石木王(磐城皇子と同一人物と考えられます)の子」とあります。
どういう経過で彼女が顕宗天皇の后となったかは不明ですが。
おそらく「雄略天皇系の難波小野王を后とすることで、皇位継承を正当化する」といったところだったのだと思います。
ただ…顕宗天皇の兄であり、次に皇位を継承することになる仁賢天皇は、雄略天皇の娘である春日大娘皇女を后としています。先に皇位を継承した弟の顕宗天皇が、雄略天皇の娘ではなく孫娘(あるいは曾孫娘)を娶ったというところに多少のスッキリしないところを感じずにはいられないところです。
しかも。
磐城皇子ですが。
雄略天皇崩御の後、皇位簒奪を企てた同母弟の星川皇子とともに焼き殺されたと言われています*1。
さすれば、難波小野王は「謀反人に加担した人物の娘(or孫)」だったわけです。
「雄略天皇系の女性を后とすることによって皇位継承を正当化する」のが目的であるとすれば、他に適切な人物がいなかったのか…。
春日大娘皇女は、仁賢天皇でなく顕宗天皇の后ではいけなかったのか…。
これに関しては。
「難波小野王が吉備氏の血を引いている」というところをキーポイントに考えている学者がいます(難波小野王の母・吉備稚媛は吉備氏の娘です)。
後に天皇となる億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)の兄弟は、父親である市辺押磐皇子が雄略天皇に殺害されて以降、追手から逃れて逃避行の生活を送ったと言われています。その逃避行のさなかに兄弟を援助したのが吉備氏で、その縁で難波小野王が顕宗天皇の后となったのだ…と。
史料が乏しい時代のことゆえに確証のない説ではありますが、なかなかに示唆に富む考えです。
顕宗天皇元年(485年)1月。
顕宗天皇の即位と同じ月に、彼女は皇后に立ちます。
が。
『日本書紀』には、この後、実にショッキングな形で、彼女の記事が再掲載されています。
夫である顕宗天皇が崩御した後。
仁賢天皇2年(489年)9月。
彼女は自殺したといいます。
あまりに唐突な印象のある記事ですが。
よくよく読んでみると、案外奥の深い記述なのです、これ。
『日本書紀』の原文には。
「難波小野皇后、宿、敬なかりしことを恐りて自ら死せましぬ」とあります。
「宿」は「もともと」という意味で、現代語訳すると「難波小野皇后は、もともと尊敬がなかったことを恐れて自らお亡くなりになられた」と言ったところでしょう。
この「宿、敬なかりし」の目的語は誰に対してなのか…というと。
義兄である仁賢天皇に対して、なのですね。
『日本書紀』は、補注で記事を進めます。
弘計天皇の時に、皇太子億計、宴に侍りたまふ。瓜を取りて喫(くら)ひたまはむとするに、刀子無し。弘計天皇、親ら刀子を執りて、其の夫人小野に命(おほ)せて伝へ進らしめたまふ。夫人、前に就きて、立ちながら刀子を瓜盤に置く。是の日に、更に酒を酌みて、立ちながら皇太子を喚ぶ。斯の敬なかりしに縁りて、誅せられむことを恐りて自ら死せましぬ。
…いささか難解なので、現代語訳(『全現代語訳 日本書紀』(宇治谷孟、講談社学術文庫)より)を参照しましょう。
弘計天皇の時、億計皇太子が、宴会に侍っておられた瓜をとって食べようとされたが、刀子がなかった。弘計天皇は自ら刀子をとって、その夫人小野に命じて渡されたが、夫人は前に行って立ったまま、刀子を瓜皿に置いた。この日さらに酒をくんで、立ちながら皇太子を呼んだ。この無礼な行いで、罰せられることを恐れて自殺された。
清寧天皇が崩御した後。
互いに位を譲り合ったとされるこの兄弟ですが。
「実は不和であり、即位をめぐって争いがあった」とする説もあります。
『日本書紀』がことさらに“美談”を演出する影で…です。
そして。
その説によると、難波小野王と仁賢天皇とのエトセトラは「兄弟の争いを隠して塗り固めたものの、隠しきれずに現れた、不和の痕跡なのだ」と考えられる…というのです。
なるほど。
そう考えると、難波小野王の仁賢天皇に対する無礼な振る舞いも説明がつきますし。
夫の死後、不和であった義理の兄の報復を怖れて自ら命を絶ったのだ…というのも辻褄が合うところです。
文献史料が記紀しかない以上、ここから先は想像するしか詮かたなしですが。
なんとなく「さもありなん」と思わされてしまうのです。
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