本日の表題関連

若年寄の前身は六人衆であった」という事実。
恥ずかしながら初見でした。


『世界大百科事典』(平凡社)には、このように記述されていました。

若年寄
わかどしより

江戸幕府の職名。老中に次ぐ重職。老中が朝廷、寺社、諸大名など幕府外部の諸勢力を管轄することによって国政を担当したのに対して、若年寄は、旗本、御家人などを指揮、管理することにより、将軍家の家政機関としての幕府内部のことを掌握した。若年寄の職名と職掌は、3代将軍徳川家光の時代の六人衆に起源する。1632年(寛永9)大御所秀忠の死によって実質的に幕政を掌握した家光には、太田資宗三浦正次阿部重次阿部忠秋堀田正盛松平信綱の六人衆と呼ばれた6人の出頭人(しゆつとうにん)が存在しており、彼らは旗本を統率して家光の身辺を護衛すると同時に、常時家光に近侍して諸事を取り次ぐ役割を果たしていた。他方家光には、土井利勝をはじめ秀忠の出頭人として老中の役割を果たしていた人々が存在しており、家光は彼らを無視して幕政を進めることはできなかった。家光の幕府には、秀忠の遺臣と、家光の出頭人との2種類の老(おとな、としより)が併存しており、秀忠の世代に属する前者に対して家光と同世代の後者は、当時〈若き年寄衆〉と呼ばれた。若年寄の称呼はここに起源する。また職掌は、旗本を統率する出頭人としての機能が固定したものであり、具体的には1633年に六人衆は〈少々の御用〉は6人の合議で取り計らうように定められ、翌年には老中と六人衆の分掌が定められて、若年寄は番方の旗本、御家人を支配することとなった。1649年(慶安2)幕府は若年寄を廃してその職務を老中の管掌としたが、62年(寛文2)に再び若年寄を置いた。以後幕末に至る。時期により異なるが、定員は3〜5人、幕末には10人以上に及んだ。小禄譜代大名が任命され、月番で執務した。

Wikipediaには、このように記されています(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E5%B9%B4%E5%AF%84)。

全国支配の担当である老中に対し、旗本や御家人の支配を軸とする将軍家の家政を担当した。
1633年(寛永10年)に、徳川家光が側近6人(松平信綱堀田正盛三浦正次阿部忠秋太田資宗阿部重次)を日常の雑務を扱う「六人衆」としたことに由来する。しかし、そのうち4人は老中に昇進したため存在意義を失い1649年(慶安2年)にいったん廃止され、老中にその職務は吸収された。その後1662年(寛文2年)に、若年寄として復活した。およそ4人を定員とし、老中・側用人などに出世するために経験する職となっていった。

…まだまだ自分の知らない日本史知識は山のようにあることを認識させられました。


六人衆のうち。
堀田正盛阿部重次は、慶安4年(1651年)家光逝去の際に殉死しています。
他方、松平信綱阿部忠秋は、後を継いだ4代家綱を補佐し、幕政を支えていきました。
太田資宗三浦正次は…すみません、よく知りません(苦笑)。勉強していきます。


★★今日「若年寄」というと「年齢の割に老けた外見の男性」のことですが。人気blogランキング★★