壮士の最期(6)
まだまだ、毛利家における切腹の様子のつづきをば。
赤穂四十七士のなかでも比較的メジャーな浪士に部類される1人に、武林唯七がいます。
なんと孟子の子孫だったり*1。
討ち入りの際に、奮戦を見せた挙句、間十次郎が一番槍をつけたのに続いて吉良上野介に二の太刀を浴びせたり*2。
その功により、泉岳寺において亡君の墓前で焼香をする際、間十次郎に次いで2番目、大石内蔵助より先に焼香を許されたり。
…と、エピソードに事欠かない浪士です。
彼もまた、毛利家にお預けとなっていました。
切腹順は、岡嶋八十右衛門、吉田沢右衛門に続いて3番目でした。
彼について、もう1つ伝わっている有名なエピソードとして。
切腹時の様子について語ったものがあります。
介錯人の鵜飼惣右衛門に対し「頼み申す」と一礼して首の座に就いたものの。
鵜飼は、その気魄に押されたのか、手元が狂ってしまい、首の半ばまで斬りこんだものの、刀が逸れてしまったといいます。
唯七は、苦しい息の中で、自らの首を再びもたげ。
「お静かになさりませ」と叱咤したといいます。
この叱咤に応える形で。
体勢と気持ちを立て直した鵜飼は。
二太刀目で、唯七の首を落としたといいます。
このエピソードは。
『赤穂鐘秀記』という当時の読み物に載っているもので。
かなり人口に膾炙されているものですが。
昨今では、「信憑性はいささか薄いのでは…」と考えられています。
毛利家に残されている記録にこの件について何も記されていないのと。
介錯人の名前を「榊庄右衛門」*3と取り違えているのも、その論拠の1つです。
討ち入り後に、様々な「義士銘々伝」が創作されるなかで、付け加えられたエピソード…と見るのが自然のように個人的には思われます。
『忠臣蔵四十七義士全名鑑』(監修・財団法人中央義士会)(駿台曜曜社)には。
この唯七の切腹時のエピソードについては、次のように記されています。
実際には、藩の記録「赤穂浪人御預之記」(写本)が残っており、それを見る限りにおいては、唯七の介錯人は失敗していないように思われる。ただ、介錯の切り口が他の義士たちより多少、首の上であったようである。
…おそらく。
この辺りが真相なのでしょう。
余談ですが。
舟橋聖一の小説『新・忠臣蔵』の中では。
「その他、杉野十平次の介錯も、前原伊助のそれも、首尾よくはいっていない。二人とも、一太刀は斬りそこね、二太刀三太刀で、辛うじて処刑をすませている」とありますが。
少なくとも、私個人としては、この小説以外にこの2人の介錯が失敗したという話は聞いたことがありません。
舟橋聖一が、いかなる史料を根拠にこういう記述を残したのかも、不明です。
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