ずっと書きたかったこと。

本日の表題は「大正天皇即位大礼、京都御所で挙行(大正4年・1915年)」ですが。
昨年の今日11月10日の表題もまた「昭和天皇即位大礼、京都御所で挙行(昭和3年・1928年)」でした。


同日だったのですね。
偶然だったのか、意識的だったのか。


よくよく思い起こしてみれば。
記憶に新しい、今上天皇の「即位の礼」が行われたのも平成元年の11月12日でした。
これは自分の想像なのですが、「11月10日前後の日曜日」ということで12日がチョイスされたのではないかと思います。「御即位記念祝賀会」が開催された12月10日も日曜日でしたし。


ところで。
ここから先が「ずっと書きたかったこと」です。


天皇が位に就くことを「即位」という言葉でよく表すことがあります。
しかし、「位に就くこと=即位」なのかというと…厳密に言えば疑義が残るところなのです。


かつて、「天皇が位に就くこと」を表す単語がもう1つありました。
践祚という言葉です。


この「践祚」という言葉は。
「天子の位を受け継ぐこと」を表す言葉で。
「前の天皇崩御したり譲位したりした後を受けて位に就くこと」を表すものでした。
この言葉は、古代中国で「天子が位につくと、宗廟の祚(阼*1)=東階をのぼって祭祀をつかさどる」という故事に由来するものであるといいます。


平安時代初期。
桓武天皇の頃までは、「践祚」と「即位」という言葉の使い分けはされていませんでした。
初めて「践祚」と「即位」を別の儀式として行ったとされるのは第51代の平城天皇で、大同元年(806年)3月17日に父・桓武天皇崩御を受け践祚、続いて5月17日に即位礼を行ったといいます。
これ以降、天皇の位に就く「践祚」から日を経て「即位」の礼を行うことが先例となりました。珍しい例では、応仁の乱後、朝廷の財政が逼迫していた中で位に就いた第104代の後柏原天皇は、明応9年(1500年)10月25日に践祚したものの、即位礼の費用を捻出することができず、正式に即位を果たしたのは、践祚してから実に22年目に当たる大永元年(1521年)3月22日のことでした。


践祚」と「即位」が使い分けられていた頃には。
「即位」という言葉は皇位についた天皇がそれを天下に宣布すること」を表すようになりました。
この「即位」をもって、天皇は名実ともに「天皇の位にあることを認められた」と言ってもいいかもしれません。鎌倉時代践祚後即位礼を行う前に承久の乱によって位を廃された仲恭天皇が長らく「半帝」「九条廃帝」として歴代に数えられていなかったのも、それを証明するものであると言えると思います。


そして。
それらの区別は旧皇室典範に引き継がれ。
第10条には「天皇スルトキハ皇嗣即チ践祚シ祖宗ノ神器ヲ承ク」、第11条には「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」とそれぞれ定められました。
そして、この旧皇室典範を根拠として、昭和天皇までは「践祚」と「即位」を使い分ける形で位に就いています。


戦後。
新しい皇室典範が制定されましたが。
それらの条文を見ると、第4条に「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」、第24条に「皇位の継承があつたときは、即位の礼を行う」とあり、「践祚」という言葉は姿を消しています。
少なくとも、現在は法律の上では「践祚」と「即位」という言葉の区別はなくなっている形です。
それゆえに、平成元年1月7日に今上天皇が位に就いたときも「即位」という言葉で言い表されたのでしょう*2
「…1月7日に即位したはずなのに、11月12日にまた即位の礼やるんだね。重複してない?」と当時疑問を持った人がいるかもしれませんが、前者はもともとは「践祚」という言葉で表わされるものであった…と言えばあるいは納得していただけるかと思います。


というわけで。
日本史系ブログであるところの弊ブログでは、平成以降のことはともかくとして、平安時代から昭和時代までは「践祚」と「即位」という言葉は厳然と区別して使い分けていきたいと思います。
そうでないと…歴史的事実を誤って伝えることになってしまいかねませんから。
主にエントリの表題部分になろうかと思いますが、同じ天皇について「○○天皇践祚」「○○天皇即位」と出てきたら「…ああ、このことか」と得心していただければ幸いです。


★★足掛け4年…やっと執筆できたエントリです。人気blogランキング★★

*1:機種依存文字。「こざとへん+『作』の旁」【(阿−可)+(祚−示)】

*2:Wikipediaには「なお神社庁関連などでは、今上天皇にも「践祚」を用いている」という記述がありました(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B7%B5%E7%A5%9A)。興味深い記述です。